まずは、この話題を枕にしたいのですが…。
この間、ボヤキつづけていた話題にしていた、PENTAX秋のカスタムイメージ。
とうとう、実装されました。
その名は、「九秋」。(初めて聞いた!)
秋の90日間、あるいは秋の風物にちなむ九つの画題のことなどを指しているようです。
大きくは秋そのものと捉えて良いのでしょう。
主には、秋の紅葉を撮るためのカスタムイメージと理解して良いのだと思います。
ただ、しかし、少し撮影してみたのですが、独特の色味でもあり、使いこなすの難しくない?とそこはかとなく思ってはいるのですが、それはまた、今度話すようにしましょう。
高知は、まだ本格的な紅葉は始まっていませんしね。
今回は、昨日、閉幕した、高知県展の写真の部に展示してもらった作品について、サルベージしておきたいと思います。
Iris
PENTAX K-3 MarkⅢ レンズ smc DA10-17mm フィッシュアイズーム 焦点距離 10mm
ISO640 SS15秒 F3.5 アストロトレーサーType2使用
2022.1.14 高知県にて
月が滝を照らす風景。
実は、相当冷え込んでいて、岩は単に水にぬれて光っているというだけでなく、ところどころ白く凍りつつあるというような夜でした。
空に月が出て、その周りをわずかに虹色に色づく月暈が丸く囲んでいます。
滝を囲むような葉には、月光があたり、ところどころ輝きを帯びています。
よく見ると、おうし座の頭も見えるのですが、それを見つけるのは、なかなかマニアックかなと思います。
フィッシュアイズームで撮ることで、写真の全体的な丸いモチーフが強調されています。
県展は「入選」ということで、入賞はしなかったということですね。とりあえず、最低限のところをクリアして、出してもいいよということでした。
あまり高望みはせず、展示させてもらっただけでも良しとしましょう。
県展、昨年は出さなかったので、2年振りだったのですが、一昨年は結構星景があった気がしていたのですが、今回は、私のも含め4、5点といったところでした。大胆に大きく地上(と蛍)を入れて、星はわずかに見えるという作品もあり、私もそういうのを撮ってみたいなと思いました。
さて、タイトルのIris、花の名前でもあるんですが、この場合は、目の虹彩のことを指しています。瞳ですね。瞳孔の周りの丸く茶色い部分。
空に架かった月暈を、瞳に例えているということですね。
アフォーダンスと写真
今回は、アフォーダンスということを意識した作品に仕上げています。
月を瞳に例えることで、擬人化してしまっていますが、正確には擬人化したいわけではなくて、月や自然の実在性を、私の側ではなく、向こう側にあるもう一つの「モノ」として肯定したいということなのです。(もう少しタイトルは練れたかもしれませんが、なかなか擬人化を抜きにして、この向う側の肯定ということを表現できませんでした)
肝心のアフォーダンスですが、私自身は、ホンマタカシ氏の「たのしい写真」で取り上げられた範囲でしか、このアフォーダンスという概念に触れておらず、おそらくは、色々と誤解しています。
アフォーダンスの定義を、現代美術用語辞典から引用してみましょう。
アフォーダンスとは、動物(人間)に対して環境が提供するために備えているものであるとする。すなわち、物体、物質、場所、事象、他の動物、人工物などといった環境のなかにあるすべてのものが、動物(人間)の知覚や行為をうながす契機をつねに内包している(アフォーダンスをもつ)。たとえば椅子は「座る」ことをアフォードしているし、床はそこに立つことをアフォードしている。また知覚する動物の種が異なれば、アフォーダンスも異なる。
とりあえず、以上のようなことのようです。(わかったようなわからないような…)
https://artscape.jp/dictionary/modern/1198331_1637.html
環境が、動物に対して「意味」を与える、ということのようです。
つまり、この場合は、私は、「月が・照らす」ことをアフォードしていると考えています。月という環境があることで、風景が照らされ、写真が撮れていると。
そして、もう一歩踏み込んで、おそらくは、(ここが今回の要点なのですが)カメラも「環境」側なんだろうと、私は考えているのです。
環境として「カメラは・撮る」ということを、人間にアフォードしているのだろうと。
カメラは私(人間)の側にあるのではなく、環境の側なのだというのが、私の今回の議論の中心点です。
話をホンマ氏に戻すと、氏は、このアフォーダンスの概念を通じて、写真の主観性、つまり、「写真家の感性が働き写真が撮られる」という神話を解体していきます。写真自体は、写真家の感性の産物ではなく、実は、環境の側が与えているのではないかということですね。
トルボット「自然の鉛筆」
私自身は、以前、このホンマ氏の議論を読んだときに実は、それほど、ピンときていませんでした。
それが、しっくり来たのは、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボットの「自然の鉛筆」を読んだ時でした。
自然の鉛筆は「世界初の写真集」と言われており、読者にトルボットの発明した写真術を紹介するという体裁をとっています。そのタイトルの含意は、写真術とは、自然から鉛筆をつくり、それを自然そのものに握らせるということにあるようです。
写真の黎明期、いわゆるネガ・ポジ法を確立していったトルボットは、写真は化学作用によって光に感応することで自ら像を結んでいく、そのプロセスをして、つまり、自然そのものが自ずと描いているのだということを言おうとしたわけですね。
驚くべき概念の転回だったろうと思います。
それまで、絵を描く(画像を生み出す)ということは、人とその技術が介在して、ドローイングしていたわけですが、写真は、そうではないのだと、根本から違う原理、つまり化学作用に応じて、光を素に自ら像として現れているのだというのです。
今、聞いても、全くアクチュアルな問題意識のように思います。
そして、カメラは「環境」側なのではないかという議論に戻るのですが、写真機自体はデジタル仕様に変わり、トルボットの頃とは大きく状況は変わってはいるのですが、光に感応し自ずと像を生み出すという原理的なものは、そうは変わってはいないだろうと思うのです。
カメラが自然法則に従い自ずと像を生み出すのならば、それは、写真家のコントロールの外側、つまり、アフォーダンスの語彙を使えば、環境の側にあるということでしょう。
カメラはコントロールするものという思い込みを越えて、あるいは、自らの撮影術の拙さをも越えて、それでもカメラは動作して、写真を生み出してくれる。
歩くことでたどり着く写真
私自身は、何回も繰り返して強調していますが、実在論的な写真を撮りたいと常々考えて実行しています。世界は実在し、実在にカメラを向け、実在を写真へと写し取るということですね。(私自身、これを単にリアリズムともとらえてないのですが…そこはまた、別の時に議論することとしましょう)
私自身は、撮影の時に歩くことが多いのですが、歩いていくことで、構図が変わり、おのずとある写真像へと進んでいく。
その写真像が、何かの答えであり、正解であるとは思わないのですが、少なくとも、私が世界の実在の中を歩くことで、実在を見るパースペクティブ(視点)が変わり、写真が変わっているわけです。その結果、たどり着いた写真がある。
そういうものとして、写真が環境によって与えられる=アフォードされる。
ホンマ氏の「楽しい写真」から一節引用しましょう。
自分自身の感性とやらを過大に評価しはじめた瞬間から、行き詰まりがはじまる。チッポケな自分自身の内面よりも、自分を取り巻く環境にこそ無限の可能性があると考える方が前向きで健全な気がします。だいたい気が楽じゃないですか?自分のことばかりを考えて部屋に閉じこもっていても、ドンドン暗くなるばかりです。
私自身は、ホンマ氏の指摘するところの「自分のことばかりを考えて部屋に閉じこも」る奴の典型なので、この言葉はすごく刺さります。ぐさりと。
そして、確かに気が楽になるのです。
私の内面はどうあれ、環境の中に歩んでいくことで、写真を撮ることができるのだとすれば、それはとても大きな救いです。
私自身は、空っぽでも、小さくても構わないとすれば、そして、そんな自らの小さな「主観」など写真に写るわけもなく、写真とは環境の中でこそ与えられるのだとすれば、自分自身の卑小さを責めて苦しむ必要もないのです。
まあ、それでもくよくよしてしまうのが、人間というもので、私自身は自らの技術の至らなさや、着眼点の悪さにいつも失望しています。
でも、それは写真を諦めてしまう理由にはならないということですね。
環境の中に、写真機を持って、歩んでいけば、写真は撮れる。と。
環境が、人間に、意味を与える。
とすれば、写真家は、自らの小さな感性の井戸を汲むのではなく、まさしく無限である自然=世界=環境の中に尽きることのない源泉を見出せばよいということでしょう。
そう考えると、自らの拙さはともかくも、少しだけ気が楽になり、救われもするのです。
ということでした。
年に一度の県展、今年は出せて良かった。
また一年、撮っていきましょう。来年も出せるといいなあ。どうかなあ。
ではまた。
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