シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

書評「新版アフォーダンス」

いや、表題の本、とても分かりやすくアフォーダンスを紹介している本で、ぜひ、書評を書きたいと、タイトルを書いたものの、私の理解度と、筆力で果たしてアフォーダンス何たるかが伝わるのかは、激しく自信がない。

 

佐々木正人著「新版アフォーダンス」(岩波書店、2015年)

 

私も、実は、このブログでも、何回かアフォーダンスについて書いているのですが、わかったような、わかってないような状態でしたので、もっと早く読まなくてはならなかった…!

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そもそもアフォーダンスとは

アフォーダンスとは、アメリカの心理学者であるジェームズ・ギブソンが、与えるという意味の動詞アフォードを名詞化した造語。本書では、「環境が動物に与え、提供している意味や価値」と説明されています。これには、食物や住まいのように良いもの、毒や落とし穴のように悪いもの、両方があり得るとのことです。

 

アフォーダンスの何が重要なのか

アフォーダンスの重要性は、アフォーダンスは環境に実在する」、という、本書にも書かれている、この一言に尽きるように思います。

どういうことなのか、引用してみましょう。

アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは、「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは、知覚者の欲求や動機、あるいは主観が構成するようなものではない。それは、環境の中に実在する行為の資源である。

 

ここで近くにある紙を見て、破れるのなら、その紙は、その人にとって、破れることをアフォードしている。しかし、「厚い段ボールの小さな紙」ならどうか、大抵の人にはそれは、破れることをアフォードしない。ただ、強力な握力を持っている人ならば、やはり破れることをアフォードした紙にもなります。

このように、身近にあるもの(例えば今私が見ているモニター)に、私たちが行為する(例えば、たたく、はじく、なでる、など)ことで、無数のアフォーダンスが与えられます。

環境の中のすべてのものに、アフォーダンスは「無限」に存在している、と著者は言います。その通りでしょう。

 

アフォーダンス環境の事実であり、かつ行動の事実である。しかし、アフォーダンスはそれと関わる動物の行為に依存して、現れたり消えたりしているわけではない。さまざまなアフォーダンスは、発見されることを環境の中で「待って」いる。アフォーダンスの実在を強調するので、ギブソン理論は「エコロジカル・リアリズム(生態学実在論)」ともよばれる。

アフォーダンスは実在している。

このことは、もう一つのある重要な性質をアフォーダンスに付与しています。

 

アフォーダンスの「公共性」

実在していることによって、それは誰もが、利用できる可能性として、環境の中に潜在していることになります。つまり、アフォーダンスには「公共性」がある。

アフォーダンスは、プライベート(「私有」)ではなく、パブリック(「公共」)である。

ギブソンは、2人の観察者が、同時に同じ場所にいられないのであれば、2人の観察者は同じ環境を持ち得ないのではないか?という問い、すなわち、各観察者の環境は「私有」のものではないかという問いは、間違っていると看破します。

ギブソンの言葉を引用しましょう。

媒質中(引用者注:空気や水など)にある移動の路は観察点の集合体を構成している。生息地の中で、時間さえかければ、どの動物個体も、同種の他の動物たちと、同じ路を移動できる。

筆者(佐々木氏)は、周囲に意味があり、それが環境を移動するすべての動物たちにとって、平等にアクセス可能ならば、それは公共的であると指摘します。

しかし、ある種のアフォーダンスを知覚するためには、長い経験が必要になるとも述べます。たしかにこれは、その通りで、先のギブソンの引用にならえば、確かに私も、他の人間と同様の路をアクセスできる…とすれば、世界最高峰に対して登頂できるというアフォーダンスに、原理上はアクセス可能です。しかし、それは、現実としてはできません。

つまり、アフォーダンスを引き出すためには、動物の側の、ある種のトレーニング、本書の言葉を借りれば「更新し続ける身体の動き」が必要になります。

この、更新し続ける身体の動きを、ギブソンは、「知覚システム」と呼びました。

 

知覚システムとしての身体

身体を「知覚システム」として考えるということは、刺激(例えば光や空気の振動)を目や耳が受け、それを脳が処理して感覚が生じるというモデルを否定しています。

身体は、動くことで、知覚する。

例示されているのは、棒の長さが見えないようにして、振ることだけで長さが特定できるかの実験。この時、感じる「慣性モーメント」で、かなり正確に棒の長さを特定できることが、示されています。

この「慣性モーメント」を感じる受容器というのは、じっと動かない手をいくら見ても、存在しえません。棒を振るという動作が、その棒の情報(長さ)を引き出します。

このように、動物の動作が、環境の中に潜在する意味や情報を引き出し、その引き出された意味(アフォーダンス)がまた、動物の次の動作を規定する土台になります。

この環境と動物の動作とのたえざる関係性が、意味をうみだしていきます。

 

ダーウィンのミミズ―「知性」とアフォーダンス

実は、もう一冊、同じ著者(佐々木正人氏)の「知性はどこに生まれるか ダーウィンアフォーダンス」も読みました。(まだ、いくつか読んでみるつもりです)

これは、ダーウィンを入口にして、アフォーダンスにせまっていくというユニークなアプローチになっています。

この中で、紹介されている事例に、ダーウィンによるミミズの観察があります。

イギリスに住むという気の枝や木の葉で、自らの巣穴にふたをするというミミズについてのダーウィンのつぶさな観察が示されています。

そこでは、どのような木の枝や木の葉をどの向きで入れるか、それを地面の堅さ、柔らかさなども勘案して、ミミズが決めていくというのです。

自然を虚心坦懐に観察することにおいては右に出るものはいない、かのチャールズ・ダーウィンは、このミミズの観察結果を受け「たった一つの代案だけが残る。すなわち、ミミズは体制こそは下等であるけれども、ある程度の知能を持っている」と述懐します。

このダーウィンのいう「ミミズの知能」こそが、「アフォーダンス=環境の中にある多様な意味」を「柔軟」に探し当てるという、全ての動物が行っている行為なのだと、著者(佐々木氏)は指摘します。

 

最後に少しだけ写真論を

私は、これまで、アフォーダンスを、環境が動物に与える意味と理解して使ってきました。いや、これは、確かに間違いではないですが、重要なことを見落としてもいました。その環境の中の意味は、動物の行為がなければ発見されない、潜在した意味だということです。

つまり、このことから、アフォーダンス理論を、写真論に適用する際に私が見落としていた重要なことが浮かび上がります。つまり、先の最高峰登頂の例でも書いたように、環境の中に潜む意味を見つけ出すには、長い経験が必要とされるということです。

環境の意味や情報を捉え損ねないためには、長い経験による写真術の熟練も、また、必要とされるでしょう。写真家は、ただ実在としてのアフォーダンスを与えらえる存在ではなく、その行為によって、意味を積極的に探り当てていく者でもあるのです。その写真行為にも、少なからぬ意味が与えられます。

 

ということで、アフォーダンス…少しは、伝わったでしょうか。

動物が移動することによる見た目の変化、「変化項」と「不変項」という重要な概念など、まだ書けなかったこともありますので、それはまた、いずれ、私ももう少し、学んで、写真論に生かしたいと思います。

 

ではまた。

 

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