シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

「日常星景」序論

はい。

(※2/1改題 「日常的星景」→「日常星景」に変更。主に語感の問題…)

 

今日は、(例によって、需要については度外視した)写真論記事です。

私は、一枚撮りの星景写真を基本に撮影を続けていますが、そのことにどういう意味があるのかというのを、常々、考えています。

 

今回、それを、「日常星景」という言葉でまとめてみたいと思います。

この時、「日常」というのは、思い通りにはならない日々のこと、と定義しておきましょう。

つまり、日常星景とは、「思い通りにならない」星景写真だということになります。

一枚撮りなので、そこには、飛行機や船、自動車などの光跡が写ることもあれば、雲が入り込むこともあります。あるいは、環境光の影響を受けることもあります。すべてをコントロールできた「完璧」な写真になることはまずありませんし、そこを目指してもいません。

けして「完璧」ではない、思い通りにならない写真を、撮り続けていることになります。

 

では、日常星景を標榜し、思い通りにならない写真を撮ることに、どういう意味があるのかというのを以下に記してみたいと思います。

 

導きの糸となるのは、何回か引用させてもらっているイタリアの哲学者=マウリツィオ・フェラーリスの「新しい実在論(新実在論)」です。

 

 

フェラーリスの消極的実在論と積極的実在論

フェラーリスの新実在論では、「世界」と私たちの関係を表現する際に、消極性と積極性という概念が使われます。

まず、フェラーリスは「われわれは世界を思うままに変えることなどできない」という素朴な確信の中から、世界の「抵抗」を見出します。この抵抗という世界の在り方に、フェラーリスは消極性という言葉を当てます。ネガティブの訳語ですね。世界と主体の相互関係として、消極的・否定的な「抵抗」という関係がまずある、ということです。

 

そして、この「抵抗」という消極性が、私たちの「積極性」を引き出す源泉となっているとして、3つの積極性を上げます。

1つ、フェラーリスは、「世界はあらゆる存在からなる統制的理念としてしか考えられない」と指摘します。統制的理念というカント以来の概念が含意するのは、けして到達することはない理想像のようなものとして、世界を考えるということですね。

しかし、フェラーリスはここからカントに罠を仕掛けます。世界が統制的理念(概念上、到達し得ないもの)なのだとすれば、私たちが、世界を直接経験できないという「抵抗」があるのだと考えます。世界に「抵抗」があるということは、少なくとも、世界は、私たちが構築しているものではない(=私たちの認知機構や概念図式に依存しているのなら、世界に抵抗など存在しない)という積極性を導きます。つまり、「世界は世界自身を与えている」ということです。

 

2つは、「世界が世界自身を与えている」というテーゼから自然に導かれます。「世界が世界自身を与えている」のだから、存在しているものがある=世界のうちにものがあることを、主体の認知や概念によらず、客体の特徴にとどめることができるということになります。平たく言えば、世界にはものが存在しているということになります。実在論ですね。これが第二の積極性です。

 

3つ目が、今回、大事になるのですが、ものが「存在」するとき、われわれはそれを「現実」として見ているけれど、その「現実性」はどこからくるのか。

つまり、ものの現実の在り方は何に由来するのか、と問います。これを「主体」に由来するとすれば構築主義ということになります。フェラーリスはこの構築主義をも飲み込んで、そもそも主体が何かを構築できるのは、そこで構築される「形式、意味、使用法がほぼすでに世界のうちにあり、人間や動物に呼び出されるのを待っている」と考えます。ものの現実の在り方は、世界に由来している、これが3つ目の「積極性」です。

 

この3つ目の積極性はアフォーダンスの考え方ですね。

世界(環境)が、主体に対して意味を与える、というのがアフォーダンスの考え方です。

フェラーリスは、このアフォーダンス、つまり、環境と主体との相互作用は、特定の形式で決まっていると考えます。

大事なので、引用しましょう。

そのような相互作用が起こる――生態的地位から社会的世界までの――いっさいの圏域として「環境」を定義しよう。もちろん、いずれの環境にもそれぞれの特徴がある。そうした何らかの環境において、意味が「与えられる」。それは、わたしたちの思いどおりにできることではない。与えられた特定の仕方で、何かが起こる。そこには相互作用が組織されている。意味とは、その組織の在り方にほからならない。しかし、それは結局のところ主体に依存している、というわけではない。(マウリツィオ・フェラーリス、清水一浩訳「新しい実在論 ショート・イントロダクション(1)」、強調は引用者)

つまり、これを、写真の問題として、捉えなおすと、私たちが写真機で写真を撮るとき、その周りの景色や被写体と写真機という「環境」を通じて、私という主体と世界が取り結ぶ関係は、特定の仕方で決まっていて、私の思い通りになることはない、ということです。

ここまで、すでに長いですが、だいぶ、核心に近づいてきました。

 

思い通りにならない写真

つまり、日常星景とは、アフォーダンス概念に基づいて、特定の仕方で私と環境が相互作用した時に与えらえる「思い通りにならない」星景写真である、ということが、フェラーリスの「新しい実在論」からも導き出せます。

環境において意味が与えられる(アフォーダンス)時、私と世界が相互作用する(≒写真を撮る)在り方は、特定の仕方ですでに規定されており、思い通りにはなり得ません。

 

実際に即して考えてみましょう。ここには、写真機の性能のようなことも含むかもしません、また周囲の状況がどうなっているのかということにも大きく依存します。撮ろうとしたときに、私は主体として色々と工夫もし、良くなることを目指し、実際に良い写真に向かうことができるとしても、しかし、ある限られた特定の幅の中でしか写真を撮ることはできません。

ないものは写せないし、写真機の機能を超えた写真も撮り得ません。私がいくら「こういう写真を撮りたい」と強く願っても、その時与えられた条件がそろっていないのならば(環境が、そういう写真を与えないのならば)、けして思い描いた写真を撮ることはできません。

しかし、それは、主体に世界の在り方を依存させないという意味で、積極的意味を持ちます。世界が(そして写真が)私の思い通りにならないことは、世界自身が現に存在しており、私の構築したものではないということを明らかにしています。

私が美しさをつくるのではなく、外(環境)から価値(つまり、美しさや心地よさ)が与えられるからこそ、自然を撮影することに意味があるのだ、と言えるかもしれません。

 

もし、写真が、主体に依存する(「主体的写真」)のであれば、その限界線を引くのは、主体の能力ということになります。他方で、写真が環境から与えられる(「環境から与えられる写真」)のであれば、主体の能力を超えて、尽きることなき価値の源泉=世界へアクセスする回路を開くことになります。

 

つまり、「思い通りにならない」写真とは、逆説的に「尽きることなき価値」を持ち得る写真だということができます。

 

大事なので、繰り返しましょう。

日常星景=「思い通りにならない」星景=環境から意味を与えられる写真=「尽きることなき価値」を持ち得る写真

こういう図式が成り立つと考えます。

 

日常星景の具体例

以下には、日常星景の具体例をいくつか示したいと思います。

 

この時に大事になるのは、私にはコントロールできない要素を含んでいることです。例えば、街灯り、光害、飛行機や船、自動車などの光跡、あるいは雲、波、もしくは電線などの人工物といったもの、本当に色々なものが私のコントロールの外にあります。

こういったものが、写真に入り込むことで、その写真は「完璧」な風景から逸脱したものになります。そして、その一期一会の一枚こそが、その時にしか撮り得ない、日常と地続きにありながら無限のバリエーションを持ちうる写真表現となります。

これはもちろん星景に限るものではなくて、写真というものの一側面を表していると思います。それを、私は、星景写真に適用しているということです。

 

まずは、こういう、環境光を使った写真が一つ思い浮かびます。ナトリウム灯ですね。このオレンジの光は、どこにでもあり、撮影の邪魔をしてきます。そういう意味で、まったく思い通りにはなりません。

しかし、それを、取り入れたことで、このようなセルフポートレート的な写真を撮ることもできます。

 

あるいは、流星の写真なども、日常星景の一類型ということができます。

流星がいつ流れるのか、どこを流れるのかというのは、私がコントロールできることではありません。アフォーダンス的写真。環境から与えられた写真の典型であると言えます。

 

また、前回出したこれなども、日常星景といえます。

左には、飛行機の光跡が、右には船の光が見えています。これらの光跡は、画像編集で実に簡単に消すこともできるのですが、あえて残したことに意味があります。

それは、思い通りにならない日常を認め向き合うことでもあるわけです。

そう考えると、端っこに映っている船の光などというあまり意味がないと思われるものも、実は、大事な実在論的な意味を帯びてくる……かもしれません。

 

こういう雲の表現も、もちろん、私の思い通りにならない写真です。

そして、木々の向うには、街灯りが見え、それが雲を照らしてもいます。

その時、その場所にいた主体にしか撮り得ない、環境に与えられる写真です。

 

こういう波の表現なども、けして思い通りにはなりません。

しかし、だからこそ、自然の美しさを感じさせます。私が構築したものではない、外から美しさという価値がもたらされたことに、意味があります。

 

日常星景=「思い通りにならない」写真=アフォーダンス的写真という概念は、このように、かなり広範囲にわたって適用することができます。

 

日常星景を撮ることは、「思い通りにならない」写真を撮ることであり、「思い通りにならない」とはすなわち、その写真が私の内面ではなく外から、つまり環境から与えられたものだということを意味しています。

 

環境から写真が与えられるのならば、その写真は、私の小ささをも突き付けるという残酷さを持ちつつも、私の主体的能力を限界とせず大きな可能性につながりうるという希望ももたらしてくれます。

 

補論

最後に、主体的写真について、補足をしておきたいと思います。

写真に対して、様々なマニピュレーションを施していく、そんな写真というものはありえます。むしろ、今、そのような写真の方が多いかもしれません。

この時、そのマニピュレートされた写真は、主体によって構築されたものとして「主体的写真」と言っていいと思います。この「主体的写真」も最後は、写真というあり方に帰着してアウトプットされる以上、アプローチは違えど、環境と主体の特定の相互作用に規定されるというアフォーダンス概念に突き当たらないといけないでしょう。「主体的写真」と「環境から与えられる写真」は、環境と主体の相互作用の仕方を多少変えた、アプローチの違いを表しているに過ぎないのかもしれません。

フェラーリスは、社会についてドキュメンタリティ理論というものを提唱していて、社会は、文書(ドキュメント)を媒介にした、2つ以上の主体による構築物であることを認めています。

ですから、社会的産物として写真をとらえるならば、主体により構築された写真というあり方もおそらくは可能です。

この時、確かに、その写真の限界を引くのは、その主体の能力かもしれません。しかしながら、ある一個人の潜在的可能性を汲みつくすというのは、実は、一生をかけても実現できるかできないかという、それ自体が深い探求の旅といえるものでもあります。

ですから、ある主体(つまり一人の個人)を深く問題にするならば、マニピュレーションされた主体的写真というものはあり得るし、それは、人間性を問うものになりうるでしょう。

これはこれで、非常に大事な写真の在り方です。

 

一方で、環境を改変していくという形で、このマニピュレーションを使うならば、それは、古き人間中心主義に戻ることになりかねません。この古き人間中心主義は、環境を人間の活動により改変することで、気候危機という人間と環境の決定的亀裂を生み出してしまいました。その解決策を、人類はいまだ提示できていません。

そんな状況の中、写真の上でとはいえ、環境を単なる操作可能な対象として捉えマニピュレートするという古き人間中心主義的なふるまいを繰り返すことが、どういう意味を帯びてしまうのか、ということは、考えなければならない大きな問いかけがあると感じます。

 

参考文献

マウリツィオ・フェラーリス、清水一浩訳「新しい実在論 ショート・イントロダクション(1)」

中島新「消極的存在論と積極的存在論 フェラーリス、ガブリエル、そしてシェリング

河野勝彦「マウリツィオ・フェラーリスの新実在論

 

 

以前の写真論関連エントリー

今回は、下の記事などで考えたことを、もう一度、日常星景という語を当てはめ、フェラーリスの新実在論に即して、整理してみたという関係になります。お時間がありましたら、ぜひお読みください。

shironagassu.hatenablog.com

 

shironagassu.hatenablog.com

 

shironagassu.hatenablog.com

 

ではまた。

 

にほんブログ村 写真ブログ 星景写真へ

にほんブログ村


星景写真ランキング