シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

フェラーリス「新実在論」と写真

ふむ、梅雨ですね。

雨が降らなくても、雲がちな夜が多く(というか、ほぼそうで)撮りにいけておりません。なので、とうとう、写真論を書いておかないといけないかなと、…。

そもそもからいうと、私は、私が、どういう形で写真を撮っているのか、あるいは、なぜ撮っているのかというようなことを、言語化しておきたいという欲求がかなりありまして、元々、本読みなのもあり、写真を撮り始めてからというもの、古今東西の写真論を色々と読み続けています。

また、写真論といっても、写真論そのものの本だけではなくて、社会学や哲学や、サイエンスノンフィクション、あるいはある種の小説なども、「写真とは何か」、という問いに、色々な形で示唆を与えてくれます。

なので、実は、ほとんど何を読んでも、写真論になるなというかなり無茶なことを思い始めています(笑)

 

基本的には、ある一冊の本をもとにしながら、そこに関わる形で、写真論として一本記事を書くという書評に近いスタイルになります。

実は以前、別のブログで、書いていたのですが、そこのブログを諸事情で閉じてしまったので、それならいっそ、こちらのブログと統合してしまおうかと思った次第です。

SNS時代の今、ある人の人格を趣味や傾向などで色々と分けて、別のアカウントにして運用するということが多くなっていて、その方が時代に合っているのだろうとは思うのですが、私としては、全人格的な統合というのを大事にしたいというオールドスクールな面があることが否めません。人にはいろんな面があるけれど、それを含めて、一人の人間なんだということですね。

写真にとっても、日々考えていることや、行っている行動が影響して一つの作品の中にコンテクストをなしていくだろうと考えてもいます。

なので、色々と混ざり合ったブログにはなりますが、写真論も書いておきたい、と。

 

ということで、前置きが長くなりましたが、少し書いておきましょうか。

今回は、マウリツィオ・フェラーリスの新実在論と写真というテーマで、書いてみたいと思います。フェラーリス自身の著作は邦訳がないのですが、河野勝彦著「実在論の新展開 ポストモダニズムの終焉」という一冊に、このフェラーリスの思想が、1章立てられて解説されており、それをもとに書きたいと思います。

 

フェラーリス「新実在論」と写真

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まず、問題意識から。

現在…、といいますか、21世紀に入ったあたりから、実在論を中心とした哲学的な潮流の変化が生まれています。

これは、見取り図としては、一つのまとまったテーゼの元に哲学者が集っているというよりは、色々な、考え方が並行して存立しているようです。

ただ、そこには、20世紀を席巻したポストモダニズムという一大哲学潮流を批判的に乗り越えるという問題意識が通底しています。

実は、写真論を時系列で、色々と読んでいると、20世紀後半に書かれたものには、特にこのポストモダニズムの影響が色濃く出てきます。私は、しかし、このポストモダニズムが持つ性質とどうにもそりが合わないのです。

ポストモダニズム大きな物語は終焉(失効)した」として、ある種の私的な領域に、世界を還元していくように私は感じてしまいます。その結果、あなたのそういう価値観もあれば、私のこういう価値観もあるよね、と、世界を人間の認識によって多様に意味付けしていきます。つまり、存在論よりも認識論が優位になるわけですね。これは構築主義と呼ばれる思想ですね。世界が、人間の認識を通して構築されていく。

その結果、進むべき方向性を失ってしまう。私たちは、どこから来て、どこへ行くのかという問いが無効化される。

私は、これがすごく肌に合わないのです。私たちはどこへ行くのか…。それは人類としての類的な意味合いでも、また個別発生的な「私」という存在としても、これを問い続けたい。どこへ行くのか、向かうべきなのか?

 

そもそも、ポストモダニズムが、「終焉した」という「大きな物語」というのは、モダン(近代)が目指した進歩の思想のことですよね。たしかに、もはやモダンが目指したような意味合いで、理想の未来が生まれることはないように、私も思います。モダンは、ある種の新しい世界、社会を「つくる」ことを目指した。しかし、ポストモダニズムはそれを無効化した。あるいは、その理想の未来が消えたからこそポストモダニズムが生まれた。それは、私も受け入れないといけないと思っています。

だからこそ、現状から出発して、新しい世界を「つくる」のではなく、この世界を維持し、修繕し、修復するような世界との関わり方が必要だろうと思うのです。

現代を、「人新世」の時代と呼ぶようになって久しいですが、これは、人の活動が、地球に地質学的な影響を与え始めて、自然のシステムをかく乱し始めたという問題意識ですよね。地球規模の気候変動はその最たるものです。だから、たしかに、今、私たちは、亀裂が走る世界の中で暮らしているわけです。自然と人間との亀裂、翻って、この亀裂の修復が問いとなる時代、それが現代だろうと。

 

ポストモダニズムを越えて

ふむ。問題意識から書き起こすと話が長くなりますね。

本題に、戻すと、上に述べたような意味合いで、私は、このポストモダニズムを乗り越えて、人新世と呼ばれる時代に写真を撮るということとはどういう事なのだろうか、と考えているわけです。

そこで、冒頭のフェラーリスが出てきます。

実在論の新潮流は、複数の流れからなっていると最初に述べましたが、その源流の一つがこのイタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリです。ほかにも、カンタン・メイヤスーや、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハーマンなど、何人もの哲学者が、同時多発的に、思想を展開していて、すごく面白い状況です。それぞれも批判し合いながら、絡み合って思想が展開しています。

最近、前述の「実在論の新展開」で、初めて、フェラーリスの思想に触れて、これまで邦訳がなく名前だけしか知らなかったのですが、いやいや、すごくしっくりくるのです。

 

彼の新実在論は、実は、かなりシンプルです。

実在論として、認識論と存在論を混同せず、分けて考えてもいます。つまり、人間の認識に先立ち、世界は存在するということですよね。本当にこれだけ書くと当たり前のことのように思うのですが、これがポストモダニズムでは、当たり前でなかったのです。

 

フェラーリスの存在論の核になるのは、知覚の修正不可能性という考え方です。

この修正不可能性は、実はそんな難しいことはいっていません。あなたが構築主義者で、この世界は認識によって成り立っていると考えていても、太陽が昇ればまぶしいし、火は熱いですよね?と、あなたの概念的スキームがどうあれ、認識は修正できない、言い換えると、実在は私たちの認識に抵抗する。

この抵抗が、認識の外にある、実在的世界を証明するということです。非常にシンプル。認識では修正できないものがある、それが与えられるのは、世界が実在するからだ、と。

(一つ付け加えておくと、フェラーリスは、社会や制度というものは、人間の認識に依存して成立しているという立場をとっています。その意味で、この部分では、構築主義者と和解できるという言い方もしています。ただ、もちろん実在論者として、この構築された社会はある種の固有性を持ち、働きかけることが出来る客観的な対象だという立場のようです。)

 

世界を捉える写真

ここから、いよいよ、写真論になるのですが。

写真行為というのは、「世界を捉える」という意味で、人間の認識の延長線上にある行為だと思います。カメラという装置を使い、人間の視覚機構とは別の形で視覚を拡張している行為が、写真だと。

フェラーリスの知覚の修正不可能性という概念を使うと、つまり、写真という認識行為にも実在からの修正不可能な抵抗が記録されていることになります。

これは、確かにそうだろうと思うのです。

 

写真は、撮影者の意図を一定は反映するだろうと思うのですが、けして100%意図通りには撮れない。同じように撮ろうとしても、必ず、違う写真が撮れてしまう。ここでは、技術的な問題のことを言っているわけではありません。

例えば、同じ場所で同じように撮ったとしても、時間的な隔たりがあれば(つまり、写真の技術ではなく、時間という実在に違いがあれば)、その写真はけして同じものにはならない。

厳密な意味で、同じ場所、同じ時間の写真というものも存在しえない。そこには微妙な違いが写り込む

世界というのは、実在的な空間と時間なわけですが、その違いが、写真にも必ず違いとして写り込んでしまう。もちろん、そこにある被写体が移動した結果(つまりこれは時間経過の結果ですね)、全然違う写真になるかもしれない。

写真に必ず違いが生まれるのはなぜか、というと、私たちは、実在の世界にカメラを向けて、写真を撮っているからですよ、ということが、そのシンプルな答えになります。

写真が、写真家の意図を超えてしまうのははなぜか、それは、私の認識とは独立して世界が在り、それを撮っているからだよ、ということです。

 

これは、いわゆる土門拳のいうような「絶対非演出の絶対スナップ」というリアリズム写真の思想とは、また別の議論です。土門拳が意図するところは、写真家としての写真に対する態度表明だろうと思うのですが、フェラーリスの新実在論から考えるこの写真論は、世界にカメラを向けている以上、世界からの抵抗を写真は受けるんだという、写真家の態度とは違う次元の話です。

言い換えるならば、写真家がいくらこう撮ろうと決めても、実在である被写体は、抵抗し意外性を発揮してくるということですね。それが写真だよと。だってそれが世界を撮るということなんだから、と。

 

書いてみて、非常にシンプルな結論にたどり着くわけですね。

写真は世界を撮っている。

何を当たり前のことを、と。

いや、そうなんですが、この当たり前が、ポストモダニズム構築主義の元では、当たり前でなかったわけです。私たちは、ずいぶんと回り道をしてここに戻ってきたように思います。

 

現実の批判的契機としての写真

そして、このシンプルな結論によって、大事な事が浮かび上がります。

この世界に直接アクセスして写真を撮るという行為によって、私たちは、世界を、現実として直接捉えることができるわけです。

そのことによって、わたしたちは、現実に対して、影響を及ぼし得ることになります。

 

実在論的に世界を捉える足場があってこそ、世界を批判し、変革することができる。この世界が私たちの認識によって構築されているものならば、私たちは、現実にたどり着けず、現実に働きかける契機を失ってしまう。すべては、想像の中で起こることとして、過ぎ去って終わっていく。映画「マトリックス」のような世界観ですよね。構築主義がいうように、私たちの世界は、夢を見ているようなものなのならば、それを変えるには、その夢の外に出ないといけないということです。

私たちは、この現実に黙って従っている存在ではなく、現実を批判し、望むならばより良い方向に進んでいくことができるわけです。

ポストモダニズムが失効させた方向性が、もう一度、機能し始める。

 

この実在論的な批判性を、写真にひきつけて言い換えるならば、写真が現実を撮っているという事実から導き出されるのは、一枚の写真が、この現実への批判となり得る可能性を持つということです。

現実を捉え、それゆえに現実を批判し得る行為としての写真。

 

現実が、今、人間と世界との間のある種の亀裂が生じた時代、人新世の時代の中にあるのだとすれば、写真は、その現実を――つまりこの世界の亀裂をどこかで写している。

写真は、現実の亀裂を暴いてしまう。問題を白日の下に晒してしまう。

だからこそ、実在論的な批判性を発揮する写真というものが、問いを生み出し、この現実を変革し得る契機として機能する可能性があるのではないか。

そして、この批判性の回復が、モダンの復古ではなく、ポストモダニズムを乗り越えたモダンとは別様のものである以上、モダンの目指したような(新しい)世界の創造とは違う形で機能する必要がある。結論的に言ってしまえば、私は、それは、創造ではなく、修復的行為であると考えています。

現実を引き受けて、現実から出発して、この現実を変革していく――どこかにある理想を目指すのではなく、あくまで、現実に足場を置いて一歩ずつ前に進んでいく態度が、この新実在論的な態度ではないだろうか、と。

であるとすれば、この実在論的な写真の批判性は、亀裂の時代に、その現実を修復するという効果をもたらす――少なくとも、写真はその可能性を内在している――と言わなければならないだろうと思うのです。

 

つまり、今日のところの結論を述べると次のようになります。

写真は世界を撮っている。

その事実から、写真の実在論的批判性を回復するとき、写真は、現実に働きかけ、現実を修復し得る力を取り戻す――のではないか。

ひとまずは、今日のところは、この辺りで筆をおきたいと思います。

 

うむ。長いですね。長い。

これ、需要は絶対ないですけど、私は、どういう形で写真を撮っているのかということの言語化なので、また書くと思います。

特に長雨の時期は(笑)

 

ではまた。

 

今日の一冊