というわけで。
前回の記事で、お話した通り、とりあえずもう一度サルベージです。
一年間、準備してきた県展が選外でしてね。
うん。
まあ、それ自体はしょうがないのですが、なかなか、やはり受け止めるにはある程度の時間が必要でした。やはり、このために一年準備してきたのに…というのは本当に重い。
と、まあしかし、私の愚痴を垂れ流してもしょうがないので、写真論に昇華しようと思います。
というわけで、サルベージ。
星々の航路〈RE-EDITION〉
PENTAX KP レンズ HD DA 15mm Limited 焦点距離15mm
ISO2000 SS30秒 F5.6 約1時間半分を比較明合成
2019.01.13 高知県高知市にて
実は、これは、ツイッターで「前景に比べて星空が弱いように感じる」という、ご指摘を受けまして、 なるほど、そうかと思い、再編集したものになります。比較明を細くなる編集から、普通の編集に戻しました。応募したのは下のものです。
確かに、前景と星空のバランスというのは考えが及んでいなかったですね。前景が確かにかなり派手なので、そこはバランスが崩れていたかもしれません。
ただ、なぜ、選にもれたのかは本当のところはわからないわけですが、まあ、選にもれたという事実だけで十分です。それを受け止めて、明日を迎えねばならない。
明日を迎えるための写真論として
話はいったん変わるのですが、この間、写真論を通して、ポストモダン思想に迷い込んでいた私は、どうも、ポストモダンとの折り合いが悪く、このポストモダン後の思想展開というのは、何かないのかな、と探しておりました。
ポストモダンの何が相性が悪かったかと考えると、かなりざっくりしますが、次のようなところ…。つまり、どっちもどっち的な相対主義で、かつ主観的に寄りすぎて、終末観というか歴史的な行き詰まり感を基底に持つ≒方向性が見当たらない…というあたりが、うん、どうもしっくりこなかった。
これを乗り越える思想潮流があるはずだと、色々探していると、どうも「新しい実在論」というのがあるようだぞ、と。マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者の邦訳が出てるということに行き当たりまして、読んでみました。
結論からいうと、これは、現代の写真論を支え得る理論的支柱だなと感じました。探していたのはこれだな、と。これは、見つけちゃったな、と。
新しい実在論。
こちらもざくっと言ってしまうと、「客観的な実在を認め、われわれはそれを認識できる」、そして「実在は多様な『意味の場』の中に現れる」…。
2個目がわかりづらいですね。
ガブリエルは山の例えを出しています。Aから見たC山、Bから見たC山。同じものを見ているのですが、その認識=視点(パースペクティブ)も客観的な実在なのだから、Aから見たC山というのも、事実だし、BからみたC山というのもBという『意味の場』から見た事実だというわけです。
そのように、物事は多様な『意味の場』の中に立ち現れてくる。これが存在するということなのだ、と。
ガブリエルは民主制という言葉を使いますが、なるほど、たしかに非常にデモクラティックな思想だと思います。多様な視点の在り方を認めそれぞれの平等性を開きつつ、しかし、客観的な実在を認めるゆえに、そこには相互批判の可能性も開かれています。客観性があり批判ができるということは、そこに、ポストモダンにはない進行方向・ベクトル・方向性が見出せるということです。簡単にいってしまうと、良い悪いがちゃんと判断できる。
タイトルの「なぜ世界は存在しないのか」というのは、つまり、在るということが『意味の場』に現象するということなのだから、すべてを包括する『意味の場』などないのだ、という意味なんですね。(まあ、そこは本を読んでみてください。)
新しい実在論を、写真論として見ると、被写体という客観的実在に対して、無数のパースペクティブから写真を撮りうるということです(これは自明ですよね。確かにその通りです)。そして、客観性を基礎にした相互批判の中で、よりよい写真とは何かという方向性に歩んでいける。
そして、『意味の場』。
この用語が非常に重要で、世界という全体はない代わりに、私たちの日々の中には、無数の『意味の場』が現れては消え、次の『意味の場』が形成されていくという連鎖の中にあると考えるわけです。世界という全体的な包括の中ではなく、様々な意味の連鎖の中に我々はいるのだと。
つまり、そこから次のことが導き出されます。
今日起こった不幸な出来事が、また違った『意味の場』の中に置かれたら、別のパースペクティブを得て、明日には別の意味の出来事にもなりうるということです。
実際の経験から考えてみると、それはそんなに突拍子もないことをいっているわけではないのがわかります。非常に落ち込むようなことがあっても、いつの間にか、それが、和らいで、何とも胸に残るようなものへと変わるということはないでしょうか。何かの失敗とか、失恋とか、友人や親類との離別とか…もちろん、その物事が、ずっと、同じ『意味の場』にとどまり続けて、心痛にさいなまれ続けるということもあるわけですが。しかし、可能性としては意味は変わりうる。
つまり、物事は、人間によって変え得るということです。それを新しい実在論では、『意味の場』を置き換えると考えるわけですね。客観的実在に対して、人間は働きかけ意味を変え得る。
ガブリエルは、幸いなことに、といっていますが、「私たちには尽きることのない意味に参与することが許されている」、と。それが人生の意味であり、生きるということなのだと。尽きることのない意味に取り組み続けることが「できる」のだ、と。(これが、幸いなのか、それとも、意味を追い続ける不幸なのか…私も幸いだと思いたい気持ちが半分、しかし追い続けることのしんどさが半分ですね。)
なるほど。
まさに、これは写真のことだなと。
私たちは、写真を撮り続けることができ、そして、撮ることで、その画像に意味を見出します。
そして、フォトコンに出して不幸にも選外になるとする。
そのフォトコンという『意味の場』では、認められなかったとしても、違う『意味の場』――私は、これをずっと文脈と呼んできたのですが、多分ほぼ同じ意味にとれると思います――違う文脈のなかに置かれたら、誰かにとっても何かしらの文脈を語るものになりうるかもしれない。(もちろん、ならないかもしれないけれど。)原理的には、その可能性は開かれている。
例え話の一つとしてのフォトコンですが、それは当然ながらフォトコンという狭い基準に限らず、一人ひとりの鑑賞者にたいして無数の『意味の場』=文脈の中に、写真は現れることができるということです。
誰かに届かなかった写真が、他の誰かには届くかもしれない。その時届かなかったものが、いつかは届くかもしれない。
これは、写真に許された希望だろうとは確かに思います。
文脈を紡ぎながら、隣人ともそれを客観的なものとして共有し、相互にコミュニケートしながら、我々は、日々を生きていくということです。この点も大事ですね。客観的実在を認めるということは、我々は物事を(あるいは写真の意味を)他人と共有できるということです。
私は、写真を撮るということは、――何度か言っていると思いますが――まさに生きることのアナロジーだと考えています。
人類は今、かつてない量で、例えばカメラ付きスマホで、毎日何かしらの写真を撮り、それを残していっているさなかにあります。そこにある無数の写真は、その人の輪郭を(あるいは人類の在り様を)あらわすものに他ならないでしょう。まさに写真を撮ることが生き方を示す時代に、我々は生きているのです。
そして、明日がまた来ることを我々は拒めない。意味の場の中に、無限の文脈の中に参与していくことを拒めない。
いつも通り、話が大きくなってきました。
まとめたいと思いますが、つまり、不幸なことがあっても、我々はそれに働きかけ意味を変え得る可能性を持っているのだと。
不幸な出来事はそれはそれとして客観的なものとして残るかもしれない。でもその意味は変え得るだろうと。そう新しい実在論は我々に伝えています。
ということで、いやもうほんと県展落ちたの、ものすごくショックでした。
立ち直れなかったらどうしようと、心が沈んでしましたが、写真論が私を救ってくれました。写真論読んでてよかったぜ!
あああ、あー、また、一年頑張ろう。
今回、落ちるということを知ったので、次、落ちても、まあ、今回ほどショックを受けないと思います。いや入選したいけど、でも、たんたんと生きていきます。うあー。
終わります。
そうそう、PENTAXのとっておきPhoto+にひとつ写真が採用されたのも、少し、傷をいやす薬になりました。ありがとうございます。
それも、またいずれサルベージしたいと思います。
ではまた。いつものことですが、今日もまた話が大きすぎましたね。
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