シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

アウラの距離

うむ。

イシー(注・結石につけられた愛称)が、全く出ていきません。

でも、ほとんど痛みもありません。しかし、イシーを体内に宿していることに加えて、天気も悪く、星を撮れる気配がみじんもありません。

 

なので、今回も何とかしのぐ記事。

どんどんよくわからないブログになっていきます。

 

実は、先週の記事(オーテピア5周年イベント)の午後、愛媛の植物園へと足を延ばしていました。

 

なかやまフラワーハウス

iyokankou.jp

 

伊予市中山町にある小さな植物園なのですが、まあ、とりあえず、写真から。

 

実は、本題があって、私の最推しシンガーソングライターの日食なつこ、こと日食さんのライブがあったのです。ボタニカルツアーと銘打った「花鳥域(かちょういき)」、植物園を巡るツアーでした。

実は、日食さんは、このブログにも何回か、YouTube動画が埋め込まれて、登場しています。

日食さんのライブの感想は、SNSで書いてしまったので、ここでは割愛。

 

ライブ後に撮った一枚の写真が、すごくお気に入りになってしまいました。

 

アウラの距離

ライブも終わり、人も大体はけてしまい、最後に残ったステージを写した一枚。

カメラはK-3Ⅲ、レンズはHD DA70mm Limited。開放だと思います。

 

この写真を後から見返しながら、ああ、これがベンヤミンのいうアウラの距離だなと感じた次第です。

ベンヤミンがいうアウラとは何か。

ベンヤミン メディア・芸術論集」(山口裕之訳)の中の、「技術的複製可能性の時代の芸術作品」から引用してみましょう。この新訳では、アウラは、いわゆるオーラと訳されています。

オーラとはそもそも何か。空間と時間が不可思議に組み合わされたものである。それは、ある遠さ――たとえそれがどれほど近くにあるとしても――が一回限り現れる現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平線にある山並みや、憩っている者に陰を作っている木の枝を目で追うこと、それがこれらの山々や木の枝のオーラを呼吸するということである。

わかるような、わからないような話ですが、要するに、世界に表れた一回限りの事物に、近よりがたく「遠さ」を感じる、その見る側の憧れや崇拝の心がアウラ(オーラ)を生じさせると言えるでしょう。

あくまで、オーラは、見る者がつくったものだと思います。

 

奏者の去った、この光景は、私にとっては、まさに、近寄りがたい遠さを感じる一回限りの現象でした。

これ以上近づくことはできないし、触れることなどは考えられもしない。

いや、触りに行ったら明らかに不審者でスタッフの方に止められるとか、そういう現実的なこともあるのですが、それはいったん置いておいて、私の心が、これ以上近づいてはいけないとオーラを感じている、ということです。

 

ベンヤミンは、複製技術によって、芸術が手元に置かれ(今なら、スマートフォンに表示され)、また、一回限りでなく複製されることによって、このアウラ(オーラ)が喪失していくのだ、と論じたのでした。

ライブというのは、そういう意味では、まさにアウラの塊でした。

 

うーむ。

実は、このライブ、諸事情あり、公演延期で7/23になったのですが、まさかその一週間前にイシーを体内に宿すことになるとは…、その前日までは、痛みで苦しんでいたのですが、この日から痛みがほぼ引いたんですよね。

ギリギリ。運命よ、ありがとう。

 

せっかくなので、日食さんのライブ映像を貼って終わります。

 

(連続月曜更新記録が途絶えるところでしたが、残り7分でクリア!)

 

 

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