シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

一枚撮りはいいぞというお話

うむ。

そうですね、今日は別のことを書いて更新しようかと思っていたのですが、思い立って、ある「議論」に参加してみようかと思います。とはいっても、何か敵対的な話をしようというわけではないのですが…。

 

星景をカテゴライズする

「議論」というのは、天文雑誌「星ナビ」の公式ツイッターが、提起したこのテーマですね。

 

星景写真を巡っては、合成を含む色々な表現手法がとられているのが現状ですが、それを二つのカテゴリに分けてみてはどうかということのようです。

(狭義の)「写真」の範疇で撮影するのが #星景写真

合成などの技法を用いた場合は #星景画像 と呼び分ければどうかという提案

ということです。

ボーダーをどこに引くかなどの解決し難い課題はあるのではないかなとは思うのですが、基本的にこの提案に同意します。

 

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というのも、そこはやはり、カテゴリーが違う表現を、同じ判断基準・物差しで測っても有益ではないだろうと思うのです。

文章に例えればわかりやすいですが、ノンフィクション、ドキュメンタリーフィクション、物語の違いと考えれば、良いのではないかと思います。

ノンフィクションは、どんな分野でもそうですけど、綿密な取材によって、対象に迫ってその隠された姿を明らかにしていく、そこに面白さがあります。

一方で、フィクション、例えば、小説は、フィクションであることを了解した上で、そこに創作された人間の機微や物語の妙によって、人の心を動かします。フィクションだから、心が動かないわけではないのは自明です。心揺さぶられる物語というのは、実際に多いですよね。

 

ただ、フィクションを、ノンフィクション、ドキュメンタリーの物差しで評価しても、評価できません。単なる虚構ということで終わってしまいます。

一方で、ノンフィクションを、物語の物差しで評価することも適当ではない。そこには物語も含まれてはいるでしょうけども、伏線や叙述トリック、あるいは巧みな心理描写などの物語の妙だけをノンフィクションに期待しても、それは、有益な楽しみ方ではないでしょう。

少し付け足すと、一番ダメなノンフィクションというのは、著者の先入観ありきで事実をつまみ食いしストーリーが組み立てられているものだと思います。ストーリーが良くできていても、それはノンフィクションとしては、良い評価はできません。

ですので、カテゴリーを分けるということにはおおむね賛成です。

 

しかし、ここにもボーダーの部分に分けづらいものはあって、私は、例えば、小説で言えば、スタインベックの「怒りの葡萄」や、小林多喜二の「蟹工船」など、現実の取材にテーマをとりながら、物語を描いているものも、好きなんですね。

ここには、ドキュメンタリーの魅力と、フィクションの魅力の両方がつまっていたりもするわけです。なので、ボーダーの部分はある程度のグラデーションがあり、分けられないものもあるだろうとは思います。

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一枚撮りはいいぞ

話が、少しそれました。

ここからが本題なのですが、基本的に、私が、言いたいのは、ここで、特に狭義の「写真」に属する最もわかりやすい例、つまり星景写真における、いわゆる「一枚撮り」はやっぱり面白いぞ、ということなのです。

「一枚撮り」は面白い!!

これが、今回言いたいことです。

 

私は、この間、繰り返して言及しているように、一枚撮りの星景写真をメインに撮影をしています。その魅力は、何でしょう。

 

写真というのは、これも何度も繰り返して言及していることですけれども、実在論的な魅力を持っているものだと私は思っています。

実在論的な魅力。この世界は実在するという前提に立ち、それを撮ることで、表現を生み出す魅力です。

実在する世界は、本質的に魅力的で、面白い。

 

というのは、私は、同じ場所で時期や年を変えて何度も撮影をしているんですけれど、同じ写真は二度と撮れないんですね。その時の気候や、雲の流れ、月の大きさなど様々な違いが組み合わさり、同じ場所で、一枚撮りという同じ手法で撮ったとしても千差万別の写真が撮れます。

この違いの組み合わせは、まさに、無限です。

無限のバリエーション。これが面白くないわけがない。

もう少し話をつづけましょう。

 

例えば、レアな現象が起こることもあるでしょう。

星景写真で言うと、火球が流れたり、そういう予期できないことも起こります。

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しかし、後から、別の日に撮った火球を、他の日の写真に合成したとしましょう。

それは、面白いのか?…と問われれば、特に面白くはないですよね。特に撮影者である私は、それはその日流れた火球ではないことを知っているわけですから、その火球を捉えた興奮や感慨などは生じないわけです。

上の写真は、2018年のふたご座流星群の夜に撮影した火球です。この日のことは、この写真を見ると、その寒さや、その時の無数の流星も含めて思い出します。もちろん、流星群の撮影なので、私は火球を撮りたいと思って、そういう意図のもと撮影をしているのですが、撮りたいと思って必ず撮れるものでもありません。

そういう意味で、実在的世界の中で写真を撮るということは、撮影者の意図=コントロールを含みつつも、その意図を超えた無限のバリエーションの写真が生まれてくるということなのです。

これが、面白くないわけがない。

 

撮影者の意図を超えて

撮影者の意図を超えたものが生まれる手法が、写真なのだと私は思います。

その驚きの種は、この実在的世界の中に、常に、すでに、埋まっているわけです。

それが芽吹く瞬間(星景の場合は、瞬間ではなくて、数十秒だったりしますけど)を、掴んでくる。

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撮影者の意図通りの写真ばかり撮れるなら…私は、これほど写真にははまらなかっただろうと思います。

逆説的に問うてみましょう。

私が撮りたいと思えば、毎回火球が飛び込んでくるのなら、それは、面白いだろうか?

私の答えは、言わなくてもわかるだろうと思います。

 

撮影者の意図を超えていく。

その写真の醍醐味を一番味わえるのが、星景の数ある手法の内では、一枚撮りなのではないか、というのが私の考えです。

 

でも、確かに、ノンフィクションとは違ったフィクションの良さもあるように、合成的手法によって、生み出されたものにも、心を動かす何かが宿りうるだろうと思います。それは否定できないし、否定しようとも思いません。むしろ積極的に肯定したい。

 

ただ、私は、私の意図を超えてくる表現を楽しみたい。

ということなのです。

 

だから。

一枚撮りはいいぞ。と。

そんなお話でした。

 

ではまた。

 

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