シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

星景サルベージその103 せせらぎと秋

うむ。

今回は、サルベージです。

サルベージ、私は、何かに応募したものをサルベージとして公開してきたのですが、実は今後、このサルベージを大幅に縮小することになりそうです。

 

というのも、応募のひとつの中心にしていた、ペンタックスリコーファミリークラブ誌(とフォトコンテスト)が休止するとのこと。

いやはや、残念。

 

まあ詳しくは、後にして、とりあえず、サルベージをしておきましょう。

 

せせらぎと秋

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PENTAX K-3 MarkⅢ レンズ HD DA★11-18mm アストロズーム 焦点距離 11mm

ISO6400 SS15秒 F2.8 アストロトレーサーType2

2021.11.13 高知県にて

 

秋の風景ですね。

月明りの下を、せせらぎが流れていきます。雲が多く、少し星が少なかったのが残念。秋、という意味でも、少し紅葉の時期がベストではなかったかもしれません。月が出ていて、私が行ける夜でということで、このタイミングでした。

せせらぎと空が、対照的な形になっています。

 

今回は、前述のペンタックスリコーファミリークラブ誌のフォトコンで、予選通過ということで、惜しくも選に入りませんでした。最後から2回目。ああ、ここで選に入っておきたかった。ダメだったか。

このフォトコンは、次回で終わってしまうので、最後に選に入っておきたかったですね。次回はもう送ってしまっているのですが、それが本当の最後です。でも次回は選に入るかといわれると、そんな自信はないですよね。

 

次回、終わった時に全体は振り返ることにして、17回にわたって、応募したようです。

ふむ。感慨深い。

 

合わせて、地元紙のフォトコンにも応募していたんですが、こちらの方も撤退しようと思います。実は、昨年あたりから審査傾向が変わった感じはしていて、私の暗い星の写真は、ちょっと合ってないのではないかと思っていました。それが少しずつ確信になってきていたのですが、これを機会に合わせて、応募をやめてしまうつもりです。

 

なぜ、撮るのか

何回か、書いてはいるんですが、私は、私の写真を客観的に見てもらう必要があるなと思い、フォトコンに応募してきました。

その効果は一定あったなとは、思います。

と同時に、確かに潮時なのかなという気もし始めてはいました。

というのも、私は、写真に対するスタイルを、ある程度固めてしまったので、ここからは、客観性というよりは、内在的な理由を探らなければならないのかもしれない、と考え始めていたのです。

確かに、フォトコンへの応募が撮り続けることのひとつの動機とはなっていたんですが、もっと内在的な理由に、転換していかないといけない時期だなとも感じていたということですね。

 

なぜ、撮るのかを、写真と自分の関係において問い直すということですね。

これも、何度か書いているんですが、私は生きることと撮ることを重ねている節がありまして、そういう意味では、撮り続けることは大切なことにもなってきました。

写真が見せる意外性、撮影者の意図を超えてくる写真というものがあり、それこそが、写真を撮る意味だろうと考えてきました。

私はこれは、実在論的な世界に写真機を向けて撮るという行為に付随するものとして、理解しています。

つまり、世界は、まぎれもなく実在的に存在していて、そこには、撮影者にコントロールできない驚きが隠れているということですね。実在的世界には驚きが潜んでいるということです。

その驚き、意外性のために、写真を撮っていく。

それが、現時点での、写真を撮り続ける内在的理由のひとつということになるだろうと思っています。

 

そして、もうひとつ。(少し話が飛び、長くなるのですが)

ヴァルター・ベンヤミンは、写真の芸術的価値として「展示的価値」(「複製技術時代の芸術作品」)という、大衆に開かれた鑑賞の中にある価値創造を想定していました。

そして、その大衆化の先に、大衆による芸術のコントロール、つまり真の意味での芸術の民主化・民主主義化を企図していました。

この写真の展示的価値の側面は、すでにSNSとそれを可能にした技術によって、極限まで推し進められてきました。いまや、確かに、ほとんどの人が、撮る側でもあり、見る側でもあるという意味で、ある種の「民主化」はすでに成し遂げられています。

ただ、今のSNSの状況を、より正確に言えば、技術が資本に従属した状態での、写真の「商品化」だろうと思います。商品化も、ある種の等価性を写真に付与するという意味で、一定程度は民主的ともいえるのかもしれませんが、それはしかし、まだベンヤミンが企図した「大衆による芸術的価値の創造」という状況にはいたっていないということでもあります。

この、写真の価値が資本に従属した状態である、写真の商品化は、写真の展示的価値の政治的可能性である民主化の力を、その反対物に転化させているでしょう。

折しも、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」を書き、この展示的価値の政治的可能性を指摘した時期は、しかし、メディアによって独裁者ヒトラーがつくられていった時代でした。

ベンヤミンは、ですから、資本が展示的価値を利用することで、スターや、チャンピオン、独裁者など「礼拝的なもの」が、生み出される危険性をすでに指摘していました。

今、ロシアのウクライナ侵略を前に、私たちは、ベンヤミンが生きた時代の再演を目の当たりにしています。一人の独裁者によって、戦争が始まる時代。

この時代に、もう一度、ベンヤミンを参照しつつ、写真の展示的価値の政治的可能性、芸術を大衆に開かれたものにしていくというその意味を考えてみたいなと思っています。

これが、写真を撮る、私のもう一つの理由になるだろうと思います。

(うーむ。何か我ながら、めんどくさいことではある…)

 

と、いやはや。

フォトコンへの応募は終わりか。

少し、寂しいですね。

ですけれど、だからこそ、写真を撮る意味をさらに大事にして撮っていきたいと思います。

いや、まあ、年に何回かは何かには出すとは思いますけれどね。

 

ということでした。

ではまた。

 

ふむ、しかし、リコーイメージングPENTAXがこれからどういう方向に向かうのか、期待もしつつ、不安も抱えつつ、見ていきたいと思います。

が、どうあれ、写真は、撮っていきたいなあと。続けていきたいですね。

 

 

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