韓国、中国のトップ棋士を相次いで大差で破ったAI「アルファ碁」。
棋士とAIのたたかいの顛末を、日本棋院に所属するプロ棋士である著者が、囲碁ソフトの開発に携わった経験も踏まえながら、わかりやすく解きほぐしていく。
アルファ碁によって、何が起こり、何が変わろうとしているのか。
AIと人間の関係とはどうあるべきなのか、囲碁という視点を据えて、社会全体にも通じるその問題意識を示していく。
囲碁をしない者にもわかりやすく
私も、囲碁は、盤上を石で囲んだ範囲が広い方が勝つというくらいの認識しかない、まったくの囲碁素人である。本書は、囲碁を知らない者にもわかりやすくかかれており、さらには囲碁自体の魅力も伝わる一冊にもなっている。
著者曰く、囲碁を打つこととは、互いの主張が積み重ねられて物語を紡いでいくことなのだという。一局の碁が物語とすれば、一手一手はその中のエピソードに相当する。一局の中にドラマがあるそれが囲碁なのだと。
そして、それは、囲碁を打つうえでも重要な役割を果たすようで、囲碁にとって大事なのは、知識よりも感覚や大局観のような確実でない部分、つまりストーリーを把握する力なのだそうだ。その感覚に、経験や実績が備わることで見えない恐怖に打ち勝ち、思うように動けるようになる。それが囲碁を打つということなのだ。
囲碁を打つことは物語を紡ぐこと、囲碁の面白さを伝えてくれる素敵な表現ではないだろうか。
アルファ碁への敗北
アルファ碁は、韓国のイ・セドル、中国の柯潔と世界のトップ棋士を相次いで破り、人間との対戦からは引退することを宣言した。
最初は、人間が打った棋譜を学習して力をつけたアルファ碁は、最終バージョンでは自らAI同士で打ち合った棋譜を自己学習することでさらなる強さを得た。
人間と車がどちらが速く走れるかは自明なように、AIと人間が同じ条件で情報を処理しようとすればAIが優れるという時代が来たのは間違いない。
しかし、難しいのは、AIが強さを突き詰めれば突き詰めるほど、囲碁としての面白さはなくなってしまうということだ。全ての手筋を解析できる能力を、仮にAIが得たとすれば、そこにあるのは、ただ一つの正解ということになり、他のあらゆる手の可能性は失われてしまう。そうなれば囲碁というゲームの楽しさはなくなってしまうだろう。
究極の強さは、面白さをゼロにしてしまうのだ。
そして、その問題は、もちろん、囲碁に限った話ではない。
囲碁は多様な選択肢があり無数の分岐を経るゲームであるので、社会という複雑なモデルに対しても、ここで培われたAIの技術が応用されていく。事実、アルファ碁の開発チームは、このAIを社会に適応させ、活用しようとしている。
あらゆるものの正解(最善手)が、AIによって決まる、ということは原理上は可能である。(もちろんそれを社会が受け入れるべきか、また受け入れうるかは別として)
いま、この時に、社会がどのように変容し、それとどう対峙し、AIと人間はどのような関係を築くべきなのかが、鋭く問われていることは間違いない。
「人間らしさ」というキーワード
この状況に対して、著者は、人間らしさを考えることが重要なのではないかと提起する。人間らしさというこれまであいまいだったものの「最大公約数」を探る議論を始める時期なのではないか。
囲碁を打つの「打つ」には、手偏がついており、碁を打つということは、盤上だけの問題ではなく対局者の身体があってできるものなのだと、著者は指摘する。
一局の碁、そのストーリーは、ある二人、その二人の組み合わせでしか生み出すことができない。代替がきかない、かけがえのないものであること、そこに人間としての基本的尊厳が生まれるのではないか、という著者の問いかけは重く響く。
人類は自らの能力を超えた「完成度」を手に入れた代償として、自らの「人間らしさ」を問わねばならないという新たな矛盾を抱えたことになる。そこから目をそらさないことこそが、人間としての価値になるのだという結びの言葉を、受け止めたい。
AIと人間の共存の時代――人間の能力を凌駕していくAIが、「正解」や「最善手」を決めることが可能になる時代に、あえて、人間として、物語を――つまり結果ではなく、過程を紡ぐ意味を、今、考える時期に来ているのではないかと思う。
AIの進展はこれからも急速に進むだろう、それを受け止め得る「人間らしさ」の議論を私たちは話し合わなければならないのだろう。