シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

銀河の外れの町で

うむ。

平日、天気がよさそうだったの撮影に行ってきた一枚をアップ。この日は、平日ということを…忘れたわけでもないのに、実にナチュラルに全力で夜中まで、撮り切ってしまった、という。

 

しかし、また、台風が来て、天気が長期で崩れそうですね。平日行ってきて良かったと言えばよかったですが、ペルセウス座流星群は撮れるかなぁ。どうかなぁ。

13日の明け方が良さそうですが…さて。

大概いつも高知にいないのだが。…去年、福井の東尋坊までいきましたが、あれはほんと遠すぎてクレイジーでしたね。運転があまりにしんどかったので、もう多分今年はそんなに走らないでしょう。満月期ですしね。見上げる程度にしておこうか、どうか。

 

昨年のペルセ群の記事。

shironagassu.hatenablog.com

 

と、まあ、それはともかく、撮ってきた夏の天の川を。

 

銀河の外れの町で

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PENTAX KP レンズ   HD DA☆11-18mm アストロズーム 焦点距離11mm

ISO4000 SS30秒 F2.8  アストロトレーサー使用

2019.7.31 高知県四万十町にて

 

今年は、天の川中心部を挟んで木星土星が並んでいます。

向かって右側の明るいのが木星、左側にある小さな輝きが土星ですね。

銀河の下には、小さな町の明かりが人の営みを伝えるように輝いています。

遠く太平洋の水平線上をいくつか船が進んでいる明かりも見えますね。

天の川の構造は良く出てくれたと思います。 

 

この日はなかなか良い天の川日和でした。

夏の天の川中心部、私は、撮ると、こればかりに引っ張られるので実は被写体としては苦手ではあるのですが、今年は苦手を克服したい。

が、まあ、できるかよくわからない。気負わず行きましょう。色々と自由に撮ってみたいと思います。

 

表現者の自由

色々と自由に撮りたい、…と唐突な導入で写真論を語り始めます。最近、撮影者の自由とは何かということを考えています。

いや、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展」の件もありますけど、それとはまたちょっと別の話です。関連するかな、しないかなぁ…。少しするか、しないか。

aichitriennale.jp

(あれはあれで、大事な事なので、展示への支持と、脅迫と公権力による圧力を強く批判するという立場は明確にしておきます。が、今回はその話ではない) 

 

撮影者の自由については、ヴィレム・フルッサーの「写真の哲学のために」を読んだことでちょっと色々考えないといけないなと思い、ここ一カ月ほど考え続けています。それは、写真を撮り続ける意味とは何だろうか、という問いにもつながっていきます。

 

フルッサーの「写真の哲学のために」を(いささか乱暴に)要約すると…。

フルッサーは、写真(彼は「テクノ画像」と呼ぶ)の誕生を、文字の誕生にも匹敵する人間の知覚の変化の契機なのではないか、という問題意識から話を始めていきます。

テクノ画像は、全てを文脈化・意味化させ(つまりその意味で情報化させ)、あらゆる行為の歴史的性格を喪失させつつ、円環的な永遠の繰り返しへと現実を変化させていく。それは、つまり、写真が複製されることで原理的に永遠に存在し続けうるということに結び付いています。(一方で、文字は、原因があり結果があるという線形・歴史的であった現実に対応する知覚につながると解釈されています。)

その時に、装置(特にカメラ)は、世界を変化させるのではなく、世界の意味を変えるという形で、人間に労働とは違うカテゴリでの自然との関わり方を促すのだ、といいます。それは、プログラムの管理のし方であり、装置を通した遊戯・ゲームという人間と自然との関わり方だと指摘されます。(実は、1930年代の批評家ヴァルター・ベンヤミンも同じような問いを立てています。ベンヤミンは、複製技術を第二の技術と定義して、それは自然と人間の共同の遊戯なのだと述べています。おそらくはフルッサーは、ベンヤミンのこの議論を一部踏襲して取り込んだのだと考えるのが自然に思えます)

装置は、主体としての人間の自由を徐々に排除しながら、人間がプログラムに従うように働きかけ、自動化を推し進めていきます。その意味で、人間は自由を失っていく。この現代の、自動化による人間の自由の喪失の局面にあって、人間が(特にこの場合は撮影者が)、どのように自由を発揮できるのだろうか、というのがフルッサーの示す問いです。

それは、写真というものが、偶然と必然で出来ている以上、まさに偶然と必然の結果としての人生における人間の自由とは何かという大きな問いも含むものになります。(おそらくこの辺りは、生物の個体を遺伝子の乗り物と定義をしたドーキンスの「利己的な遺伝子」論とも重なっているように読めます。つまり、遺伝子が自らが有利になるように生物に或る行動をとらせるとするならば、人間の自由意志はどこに見出されるべきなのか、ということです。)

フルッサーは、撮影者の自由を、装置を欺いて、新しい一手を生みだすチェスのようなゲームの指し手の自由として、措定していきます。つまり、装置を通した自動化による人間の自由の喪失とそれに抗う遊戯的人間の闘争(対立あるいは矛盾)として、自由のありどころを示していくのです。

 

と、私が大まかに理解したところによると、そういうことなんですが…。

いやいや、なるほど、と。

1983年に書かれている「写真の哲学のために」では、どこまで想定されていたかわかりませんが、AI時代の現代から見るとフルッサーの問いかけはとてもアクチュアルなことがわかります。今や、AIが高度に発展し、まさに装置の自動化が極限まで進もうとしています。その中で、「撮影者の自由」と名付けられるようなフルッサーの現代的自由の仮定は大きな意味をもっていると言わざるを得ません。

AIが、碁のトッププロ棋士を倒すような時代にあって、それを欺き得る一手を打つことができるのか、その欺く妙手に自由を見いだす、という直接的なメタファーでも表現ができます。そして、何よりも今、AIの軍需産業への利用が大きな問題になる中で、AIが搭載された自動兵器が、人間を自動判別し撃つか撃たないか生殺与奪の権を得てしまうということが現実になろうともしています。自動兵器の問題は、まさに人間の極限的な自己疎外であり、自分達のつくった技術の総体である装置が、人間を介さずに人間の自由を究極的に(死によって)奪ってしまう、ということでもあるでしょう。

そんな時代に、措定されるべき自由のモデルが写真家であるとするならば、非常に興味深いと言わざるを得ません。

 

シジフォスの自由

私は、この写真家的自由を「シジフォスの自由」と呼びたい。シジフォスとは、「シジフォスの岩」で知られるギリシア神話の登場人物ですね。

神話によると彼は、「見つけること」に長けた、狡猾な人物であったようです。神々の怒りを買いながら、神に送られたタナトス(死)を事前に見つけ出し、死をも回避してしまう。二度、死から逃れた後、最終的には、捕らえられ、山頂に向けて永遠に巨石を転がし続けるという苦行を強いられるのですが、それも、フルッサー的な永劫回帰のテクノ画像世界、あるいはベンヤミンが示唆したような新しさを反復するモード的世界観とも重なるように思えます。つまり、今は強いられているその反復から抜け出せるか、という問いも立てることが可能です。

シジフォスのような、死をも(つまり、絶対的な必然をも)欺く者がいるとすれば、それこそまさに見つける者、見抜く者としての狡猾な写真家なのではないか。そういうあり方に、自由を求めることは可能なのではないか、と。

 

話を戻せば、少なくとも、自動化にさらされて人間の自由が喪失するという現代的な矛盾に自覚的であるところに、自由の(かすかな)可能性が見えてくるのだ、とは言えるでしょう。

「矛盾に自覚的」であることが、矛盾に摑まれつつも捕らわれ切らない、抗いうる唯一の可能性であるように思えます。そして、まさに矛盾を自覚するというあり方こそが、写真家特有の被写体の本質を「見つける、見抜く」という(シジフォス的な)態度と結びついていると考えることもできます。

この矛盾の自覚は、あらゆるレイヤーで考えなければならない問題でしょう。

あらゆるというのは、まずは、写真機やコンピュータの物理的限界と表現との技術的なレイヤーも、ひとつはあるでしょう。星景写真で言えば、ノイズをどう処理するか、合成をどう使っていくのかというような次元のレイヤーです。表現のために、何をして何をしないのかという矛盾を、撮影者は引き受けないといけません。

また、私が掲げるように「暮らしの中の星空」というような社会的・文化的な問題のレイヤーもありうるでしょう。このテーマも元々には「現代の暮らしの中から星が疎遠になってしまった」という問題意識からスタートしています。だからこそ、現代に星を撮る意味があるのだと考える…それもまた一つの矛盾の形でしょう。

そして、最初の話に戻れば、表現の不自由展のような政治的な矛盾のレイヤーもあるでしょう。政治によって表現が変えられ、制限されるとすれば、そこには当然ながら大きな矛盾が生まれます。

このような、さまざまなレイヤーにおける矛盾は、相互に結び付いて一つの作品を形成しつつ、一方の不自由、制限、制約を通じて、もう一方の作品内部における自由の生成に繋がっていきます。矛盾が矛盾として成り立つ以上は、必ず、その両端でつり合いが取れていなければなりません。とすれば、不自由の一方には、必ず自由があるということでもあるのです。

 

「矛盾を自覚する」…そういうものとして、自由を追求する。写真家としての…シジフォスの自由。

私たちは、毎日、岩を転がし続けるような飽き飽きした運命(それはSNS疲れ的なものを思い起こさせますね)から、逃れる手を見つけうるのか。もし、その可能性が少なくともあるとするのなら、それは写真家として矛盾を自覚しながらも、新しい写真の自由を追求し撮り続けるということ以外にはないのではないか。撮り続けることが例え岩を転がし続けるシジフォスの苦行と重なるのだとしても、そこにしか、可能性はないのではないだろうか。

 

と、なぜか、大きな話になってしまいましたが、まあまあ、自由に、色々な可能性を追及して写真を撮りたいな、ということなのです。

それだけを言いたいがために、4000字を弄した。

話が大きくなるのはもうしょうがない、そういう奴なのです。隙あらば理屈を立てたい。隙を見せたらだいたい理屈を立てに行くので気を付けてください。

つまり、要約すると、矛盾を自覚し、課せられた制限や不自由を知りながらも、抗い、その一枚の写真をもって新たな自由の領域をつくるのだ、それが写真を撮るということなのだ、ということになろうかと思います。

 

参考文献

ヴィレム・フルッサー著「写真の哲学のために」(深川雅文訳、勁草書房、1999)

多木浩二著「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』精読」(岩波現代文庫、2000)

スーザン・バックモース著「ベンヤミンとパサージュ論」(高井宏子訳、勁草書房、2014)

ヴァルター・ベンヤミン著「複製技術時代の時代における芸術作品」(高木久雄・高原宏平訳、晶文社、1999、「複製技術時代の芸術」による)

カール・ケレーニイ著「ギリシアの神話 英雄の時代」(植田兼義訳、中公文庫、1985) 

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ふう、この間の写真論読みの問題意識をだいぶまとめることができて満足。

 

この一年で、興味があちこちへと飛び回り、色々と読書の幅が広がった今年は古本まつりも心底楽しみだな。

koshoken.seesaa.net

サイエンスノンフィクションに加えて、写真論関係もほしいなぁ…。社会的な奴も食指が動きそうだ…。さて、色々と見つけられるか。毎年そうだが、また汗だくになってしまいそう。水分不足でえらいことにならないように、水を持ち歩こう。

 

ではまた。


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