というわけで、前回予告した通り、やってきました。
HD PENTAX-D FA 21mmF2.4ED Limited DC WR。
相変わらず、とても、綺麗なレンズです。
機材は、長雨と共にやってくる。
とは、よく言った(私が、言っているだけ)もので、今回のレンズも、梅雨のさなかのお迎えとなりました。
私の場合、機材というのは、計画通り買う時というのはまれで、最後は、何かの無理をして手に入れることが多いのです。
今回も、KP本体を売却することで何とか予算をねん出しました。
最後に思い切る必要があるのだと思います。
誰にも強制されていないので、どこまでも、買えるけれども買わないという状態で留めることも可能なのですが、だからこそ、最後の一押しは、本当に偶発的なきっかけが重要になります。
今回は、フィルムカメラ機=PENTAX 17の発売だった、という話は前回しましたね。
本当に想定外のタイミング。
さて、しかし、来てしまったものはしょうがない。
使いこなすしかない。
D FA 21mm Limitedというレンズ
一応、PENTAX予備知識としてですが、PENTAXには、Limitedラインというレンズ群があります。ハイクオリティではありながら、光学性能重視と言うよりは「数値では測れない、空気感を写しだす」という感覚的なものを詰めたシリーズです。その最新のレンズがこのD FA 21mm Limitedになります。
いや、正確には、FA 31mm 43mm 73mmのコーティングを変えて、HD FA Limitedシリーズとして出ているのが、発売日としては、一番「新しい」Limitedになるのですが、
あちらは、レンズ設計自体は変わっていません。なので、レンズ設計が一番新しいのは、D FA 21mm Limitedですね。
ちゃんと確認したら、D FA 21mmの方が発売日自体も新しかったです、半年。確認不足でした!
そして、実は、D FA 21mm Limitedを買ってから、判明したのですが、私は応募してたPENTAXのフリートライアルが当選し、7月にこのFA Limited3本を借りられることになってしまいました。
わかっていれば、これを試してから、FA 31mm LimitedにするのかD FA 21mm Limitedにするのか、おもむろに比較検討したのですが、…。
(D FA 21mm Limitedがやたら立体感を出すので、謎の存在感を獲得してしまった、草むらの遊具)
過去記事をさかのぼってみると、147日前にレンズ貯金宣言をしています。約半年。ここから、本を買う速度を落とし、貯金に専念してきました。本当は、何もなければ、秋くらいまでは貯金を継続するつもりだったのですが…。
当初は、DA★16-50mmも検討対象に上げていて、それはそれで興味のあるレンズではあったのですが、途中から、どうせなら、もうLimtedレンズが良いなと思い始め31mmにするか、21mmにするか、最後まで迷いました。
なので、借りて、正直、めちゃくちゃ気にいってしまったらどうしようと、31mmを試すのが怖いのですが、ここは徹底比較してみないといけませんね。ある意味で最高のタイミングなのは間違いない。
D FA 21mm Limitedを選んだ理由
21mmを選んだ理由は、主には、3つです。
ひとつは、APS-Cで使うということ。APS-Cで使うと、32mmの画角となり、ほとんど、FA 31mmと言っても過言ではありません。
そして、二つ目は、星でも使いたいので、なるべく広角なのが良いというのもありました。ここは16-50mmの方が広角なのですが、正直、同じスターレンズだとDA★11-18mmとの使い分けに悩むだろうなと…。
三つめは、寄れるということですね。いわゆる広角マクロ的な使い方ができるのも魅力でした。広角で、F値もめちゃくちゃ明るいというわけではないのですが、この寄れるという特性によって、すごくボケます。そしてボケがひたすらに滑らか。
実在論的レンズ試論
前回、フリートライアルで試した時も感じたし、今回、来てから少し試してみて、やはりそうだな、と思っているのですが。
D FA 21mm Limitedは、写真に実在感を与えるレンズだなと思っています。
実在感、そこに、モノ自体があるように写す。いや、当たり前です。そこにモノがあるのですから。
でも、現在の写真表現の地平は、写真に写っているモノがそこにある(あった)ということを必ずしも保証していません。ないものもいかようにも生成できるし、あるものもワンクリックでなかったことにできます。
そういう流動的な状態の中にあるコンテンポラリーアートとしての写真において、実在と写真の関係性を問うことはもう、あまり意味をなしません。それよりも写真のコンセプトや、イメージの力の方が重要だと言えるでしょう。かつてーあったモノを写すというストレートフォト=モダニズム的な写真の様態は、すでに失効をして久しい。
しかし。しかしです。
私は、何回か書いていますが、ポストモダニズム的な相対主義には陥りたくないという思いが強く、実在論的写真を志向しています。
それは、モノ自体と写真をポストモダニズムを越えて改めて結びつける、その紐帯を探していると言い換えても良いでしょう。ひとまず、その紐帯を求める写真を、実在論的写真と呼んでみましょう。
さて、では、実在論的写真とは何でしょうか。
私は、マウリツィオ・フェラーリスの新実在論に依拠しつつ、特にそこで参照されているアフォーダンス理論の重要性を感じています。
アフォーダンスというのは、モノが人や動物に対して与える(アフォードする)意味をあらわしています。外にある“実在するモノ”が、私たちに意味を与える。
フェラーリスの言葉を引きましょう。
「美や、道徳的価値や非価値が現れる仕方は、明らかに我々の外に我々を驚かし印象を与える何かがあることを示している。そしてこの何かは、まさしくそれが外からくるゆえに価値を持つ。さもなければ、それは想像以外の何ものでもないだろう」(河野勝彦著「マウリツィオ・フェラーリスの新実在論」『唯物論と現在62』収録)
つまり、私の想像という狭い世界を描くのではなく、私の外にある広大な(宇宙のマルチバース=多元宇宙を導く物理学を考えるなら、事実上無限の)世界にアクセスする。その手段が、写真だということになります。
私は、私の自意識を表現することで、写真を生み出したいのではなく、この世界と重なり合ったところで撮られた写真が、逆説的に、私という人間を規定するという写真を撮りたいのです。
D FA 21mm Limitedのこの実在感を強く感じさせる写真は、私の志向する実在論的写真と重なり合います。
ぜひ、星撮影にも使ってみないといけないと思っています。
星景写真というのは、とても実在論的だというのが、私の見立てです。
宇宙というまさに究極的な「外」にあるモノに対して、レンズを向け、その光を受ける。私が環境の中を移動して、たどり着いた場所で撮られる写真は、(たとえありふれた場所であったとしても)どこまでも唯一性を帯びます。二度と同じ時が巡りくることはありません。進んでいく時の中で、否応なく、手遅れのまま、追いすがるように、撮っていくしかない。
D FA 21mm Limitedという実在論的レンズ。これで撮る写真が、少しずつ、私に価値を(あるいは非価値を)与え、私を規定していくことを楽しみにしています。
と、ここまで書いておいて、フリートライアルで借りるFA Limited、特に31mmがめちゃくちゃ気にいったらどうしようというのが、怖い。
誰かが、私を怖がらせるために、31mmを送り付けてきたらどうしよう…。
31mmが怖い。
(↑怖い31mm。)
と、無理やりな、落語オマージュで終わります。
ではまた。
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