日常星景
「人びとは日々の暮らしのなかで、星を見ようと思わなくても無意識に星を見た。星だけを見るのではなかった。星と海、山、森等、地域の景観と連続して星があった。そして、日々の暮らしと星を重ね合わせた。」(北尾浩一「日本の星名事典」)
かつて、日々の暮らしと星が重なり合っていたのだとすれば、
闇が払われ、星が消えていくこの時代に、
生きる意味さえ希薄化し、「日々の暮らし」もまた失われつつあるのは偶然ではない。
この思い通りにはならない日々を、「日常」と呼ぼう。
私の意思に反して繰り返される日常は、
それゆえに、世界が私の内ではなく、外にあることを証明している。
今年もまた、否応なく、あの星が巡り、昇ってくる。
もう一度、星を見上げ、日常の景観の中にある星空を写し撮る。
思い通りにならない日々の記録として、星空の風景が
――「日常星景」が残されていく。
暮らしと星を写すその一葉一葉は、
微かな光となり、
私の生の輪郭を、かろうじて照らし出してくれるだろう。
YFH
というわけで
実は、これは、某講座用の最後の課題提出にあたり、作品につけるステートメントとして作成したものです。
これまで、幾度かにわたりながら、自分がなぜ、星の写真を撮っているのか、というのを書いてはきた(し、多分書き続ける)のですが、ステートメントというには長すぎるものばかりだったので、今回、頑張って、短く、言いたいことを絞ってみました。
最後の課題なのに、あきらかに、写真撮影時間より、このステートメント作成時間の方が上回ってしまいました。(やりすぎ)
でも、現時点で、言いたいことは書けたような気がします。
写真と言葉というものが、どういう関係であり得るのか。
私は、やはり、写真とともに言葉は欲しいという気がします。
その上で、写真だけを見た時にも単体で成立するくらいの、ビジュアル的な力があるのなら、なお良いだろうと思います。
写真における言葉は、「出すか出さないかは別として、持っておくことは大事」という先生の言葉は、しっくりきました。
私は、まあ、出しまくりますけど、何なら数千字書いてしまいますけど…(笑)
その上で、名取洋之助的組写真というよりは、東松照明的群写真のやり方の方が、好きかもしれません。
二人とも、写真一枚一枚はとてもあいまいで、多様な解釈が可能であるというところからスタートします。
名取的組写真は、報道写真として、写真の読みを限定し、写真があるストーリーを語るように言葉を組み合わせるという考え方でできています。
それに対して東松は、むしろ写真一枚一枚のあいまいさをもっと増幅することによって、見る人によっていくつもの解釈ができるように、複数の写真をあえてできるだけバラバラのままに面もしくは群としてまとめようとしました。これが群写真の考え方です。
この群写真と文章との組み合わせによる新しい表現は、特定の意図を見る人に一方的に伝えるというよりも、見る人それぞれがそれぞれの解釈で、自由に写真と写真、写真と文章をつなげていくことのできる、多様で重層的なものと言えます。(圓井義典「『現代写真』の系譜」より)
東松照明=写真&今福龍太=文による、「時の島々」がまさにそういう形で、編まれていますね。
ゆるやかなつながりのもと並べられる写真に、少し関係のあるような、それでいて関係ないような文が差しこまれるという形式。
手元に欲しいのですが、写真集を買いすぎる(今年に入りそこそこの大物をすでに数冊行っている。やばい)と、年間の本用予算が軽やかに飛んでいくので自重しています。
図書館にあるので、見たくなったら借りています。
ということで、日常星景ステートメントでした。
こういうスタンスで、星景写真を撮っているということですね。
思い通りにならないのは、一枚ごとの写真も、ですね。光害や雲や街灯の灯りが、邪魔をします。
そして、どうやら、生きるために撮っているということでもあるようです。「写真を撮ることがすなわち生きることである」、と言えるほどには、写真を極めてないのですが、しかし、もっと消極的な意味で、少なくとも撮り続けることが、生の証明、ライフログのようなものとして、少しずつ積み重なっていく。
私が、色々な写真論や写真史の本を読むのは、行かなくていいはずなのに、なぜ、なかば強迫観念にかられるように星を撮りに行かないといけないのかというのを、いろんな角度から、言葉で説明したいからにほかなりません。
言葉はもしかしたら写真には必要ないかもしませんが、私(というか撮影者)には必要なんですよね。言葉がなければ、おそらく何を撮るべきか、撮りたいのか、撮れるのか、私には、分からないのではないかと思います。
なので、撮りにいかないといけないのですが、撮りにいけていない。
今年に入り、なかなか忙しいのと、今日は行けそうという日に限って天気が悪いですね。うまくいかない。
それも、まさにステートメントにある「思い通りにならない日々」ということです。
うむうむ。
ではまた。