今日11月1日は、十三夜、後の月、栗名月または豆名月(異名が多いですね)でした。
今年は、そういえば、片見月にならず、十五夜も十三夜も両方良く晴れていい天気でした。縁起が良い(のか?)。
深まる秋の夜に
PENTAX K-50 レンズTAMRON 90mm MACRO 焦点距離90mm
ISO100 SS10秒 F2.8 ソフトフィルター使用
2017.11.01 高知市内にて
とりあえず、近くの公園に行って、撮影してきました。
良く晴れて、風もない良い十三夜でした。(たぶん)、ハナミズキの紅葉と十三夜の満月前の月です。
今日の本題
と、今日の本題。
実は、ASPJ(日本星景写真協会)のサイトに、今日載ったコラムが、なかなか興味深い内容だったので、それについて、ちょっと思ったことを書き留めておきたいと思い筆をとりました。
217年11月号「芸術は長し、命短し」 – ASPJ 日本星景写真協会
↑記事はこれです。
星景写真とアートの関係について書いてあります。面白いので、先に、全体を読んでいただいた方がいいと思いますが、少し引用させていただくと…
ネイチャーフォトが自然を理解し、そのすばらしさを多くの人に伝えることを目的としていれば厳密な写実にこだわる必要はないのではなかろうか。もし、ネイチャーフォトは自然をそのまま写し撮るだけだとすると、それはあくまで科学写真であってアートではない。そこに作者の思想、観念、思いやものがたりが入り込んではじめてアートたり得る。
アートというと、何でもありの代名詞のように使われるのは非常に残念だ。構図の都合で東から昇る月を北に移し替えてネイチャーフォトと言われるとさすがに困るが、目で見たままがネイチャーフォトだとすると、むしろHDRは積極的に導入したり、月などは焦点距離の長いレンズで別撮りして合成するのも一つの考えかもしれない。
このコラムを読みながら、星景を撮る意味ってなんだろうな、と考えたわけです。
私が星景を撮る意味
私は、星景写真歴も浅く、色々と技術を習得していっている途中という現状です。まだまだ、その意味を語るというレベルには達していないわけですが、それを差し置いて(差し置かないと話が進まないので)、私が考える「星景を撮る意味」を綴ってみたいと思います。
私自身は、このブログの一番最初の記事で宣言しているように、あくまで「受信者」の立場でこの世界に接したいと考えています。
サイエンスライトを読むことも、星景写真を撮ることも本質的には同じ意味を持っていて、「受信者」である自分の、「世界における相対的位置」を決めたいという思いが出発点になっています。(物語(フィクション)を読むことでも同じことは可能だと思うんですが、私は、ノンフィクションの方が好きだということだけですね)
知らなかった科学的知見を知ることで、ほんの少し変化した自分というものを定義する。一枚の星景写真を撮ることで、その作品との相対距離で自分というもの再定義しなおす。こういうことを、考えながら(まあ、いつも考えているわけではないですけどね。でも、深いところでは、あるいは、無意識化では、考えながら)、このブログを運営している、と言えると思います。
ということで、シンプルに言えば、私にとって星景写真を撮ることは、私というものを再定義(微調整)していくこと、ということになります。
「その場所で、その時に、星を写して、アウトプットする」ということが1サイクルだと思っていて、それは大事にしています。
観測者=撮影者がいることで、その時、その一瞬しかなかった星空と風景を写し取るという行為に、意味が生まれ得ると思っています。
で、その時に、実は、観測者自身も影響を受けて、少し変化するんじゃないかなというふうにも思うわけです。なので、星景を撮ることは自分を再定義することだということになるのです。
と、ここまで来て、先に引用した記事の、太線部分に帰ってくるんですが。
そこに作者の思想、観念、思いやものがたりが入り込んではじめてアートたり得る。
確かにそうだな、と思うわけです。
では、そうだとして、写真の中に作者の思いを入れることは可能なのでしょうか。
私は、写真に関して、ただの素人ですので、写真の中で思いを表現することは、(遥かな、遠い)目標ではあるものの、現状では難しいと言わざるを得ません。
写真芸術に携わる本物のフォトグラファーなら、あるいは可能なのかもしれませんし、そういう人をフォトグラファーと呼ぶのかもしれません。
ただ、私のような素人でも、写真に想いや物語を宿す方法はあるとは思っています。
それは、写真に「題名」をつけるという行為です。
世間では、とても手軽に、SNSを含め色々な媒体で写真をアウトプットしていける環境になっているわけですが、その時に題名をつけるという行為を通して、写真に作者の思いを乗せることが可能なのではないかと思うわけです。(フォトグラファーとしては写真だけによってのみそれを表現すべきだという考えはあると思いますし、否定もできませんが…)
例えば、
今日もサルベージ。
— YamamotoFHironaga (@fourier2010) 2017年10月11日
夜は終わった、爪痕のように薄く月を残して。#PENTAX K-50 #20_40mm リミズーム pic.twitter.com/kpXFEWR5tq
これなどは、もはや題名というより短文なんですが(笑)、想いは込められています。
どう見ても朝日の写真なんですが、これは、私にとっては、むしろ夜の終わりということに意味があって、(一晩の星景撮影を終えて)夜が終わることへの一抹の寂しさとか名残惜しさみたいなものを、薄く残った月に託しているわけです。
これは、私自身が、昼間よりも夜型の人間(色んな意味で。闇を抱えているというほどかっこいいものではなく、暗がりにいたがるというくらいの意味でしょうか)だと感じていることが根底にあるかもしませんし、3年前に写真をはじめようと思った時に、星景写真を選択したことにも通ずる部分があるかと思うのですが、昼よりも夜にシンパシーがあるんでしょうね。なので、これを朝日の写真だというよりは、夜の終わりの写真だと言いたかったんですね。
実はこの写真は、SNSに出したのも提出OKということで、富士フイルムのフォトコンにも出したんですけども、タイトルが長すぎてタイトル欄に収まらず改題しました(笑)どんな題にしたか、うろ覚えなのが、また適当なんですが…もっと短く似たニュアンスの題にしたと思います…と、まあ、題にこだわりきって、これぞ!というふうにやっているわけでもなく、実のところ、かなり緩やかなのですが…。
ともかくも、題をつけることで、写真に意味を持たせることが出来ると思うわけです。
逆に言えば、非常に写実的な題をつける時があって、それは、もう深く考えてなくて、撮ったまま、それ以上でもそれ以下でもないよということでもあります。でも、しばらくしてじっくり眺めていると、これは、こういう写真だなあと思い始めることもあって、そういう時はまた、改題したりするわけです。
ちなみに前回の記事の「白壁の町の星座」というタイトルも、「白壁の町の星」でもよかったんですが、少し考えて、歴史のある街並みの上に、一方で、人が長い歴史の中でつくりあげた「星座」が瞬いているということをクロスさせたいなと思って付けた題になります。
「白壁の町の星」だとそこが少し弱くなるかなと。
こういうふうに、考えている時もありますし、まあ、何にも考えてない時もあります。
でも、撮るだけじゃなくて、アウトプットすることが大事だというのは一貫した考えでして、そうしてこそ一つの写真として完成するということもあると思っています。
アウトプットした写真は自由に見てもらって、そこにその人なりの感想を抱いてもらえれば、それだけで、意味を獲得したことになるだろうと思います。実際上どれだけの人に見てもらって、どれだけ思いを喚起できているかはまあ、それほど影響力はないよな、と自信はないのが正直なところですけど、本質的には、公開することで写真に意味が生まれていると思ってもいるのです。
その時に、「題」というのが、写真を解釈する上で、方向性をかなり決めると思っていまして、まあ、適当につけるときもあるけど、考える時もあるということなのです。
何か、とりとめのない話になり始めたので、この辺で終わりますが、結論としては、①私にとって星景写真を撮ることは、自分を(少しずつ)再定義すること、そして、②写真には「題」をつけることによって、作者の意図を乗せることはできるのでは、ということでした。
まあ、素人の浅はかな考えだと思って、ご一読いただければ幸いです。
ASPJのサイトのコラムは、星景写真を撮る上でためになるので、読んでない方は読んでみるといいかもしれません。では!