シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

自分の好きな写真家を考えてみる

はい。

今日は、タイトルの通り、自分の好きな写真家について、考えてみたいと思います。

 

というのも先日、book obscuraさんによるワークショップ「【book obscuLAB】写真家地図から歴史を知る」に参加をして、写真史を200年分、ぐわーっと、教えてもらったので、自分はどういう表現に魅かれているんだろうというのが、気になってきたのです。

 

 

現在3月前半の部を、募集中とのことです。

bookobscura.com

 

このワークショップに参加して、やはり写真家を把握するにはビジュアル的に抑える必要があるということを痛感しています。

私は、やはり、これまで、非常に文字ベースに偏って写真史を追っていて、ビジュアル面での把握がすごく弱いなあというのを感じました。

写真集を中心に、実例も交えながら、短い時間で、写真家同士のつながり・影響や、なにより、写真家のキャラクターを掴ませてくれるのは、さすがでした。

 

地図は参加した人だけがもらえる秘伝のもので、Web非公開ということです!この地図もらうだけでも元はとれるので、興味ある方は、ぜひとも参加してみてください。

 

今回が、第一弾ということなので、次回の企画も、ぜひ参加してみたいですね。

 

自分の好きな写真家

というわけで、自分の好きな写真家について考えてみたんですが、挙げればきりがないのですが、とりあえず、3人。

これは譲れないという3人を選んでみようと思います。

 

セバスチャン・サルガド

一人は、セバスチャン・サルガドですね。

言わずと知れた1944年ブラジル生まれの、世界的写真家、フォトジャーナリストですね。

Workersなどで、人の尊厳と苦難を撮り続け、2000年代に入って、新境地を開くようにGenesisという自然風景・動物を撮ったシリーズを刊行しています。

 

時に、人の苦難を撮りながらも美しすぎる彼の写真は、その美しさによって、批判を受けています。また、スーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」の中で、さらに論を進めて、サルガドの写真が、「無力な状態に追いやられた人々」に焦点を定めながら、その被写体を無名化し「あまたの悲惨をひとまとめにしている」ことを批判しています。

 

一方で、サルガドの写真は、非常に長期の取材で、現場に入り込み、被写体と同化するかのような長い「待つ時間」をかけて撮られているのが特徴でもあります。実のところ、悲惨をスペクタクルに還元してしまう商業的(資本主義的)態度が、サルガドに当てはまるのかは、私は疑問を感じます。

あくまでも、被写体の隣に立ち、被写体と写真家という垣根を超えて、写真家の特権・安全圏を出て撮影しているように思えます。

文化人類学者の今福龍太氏は、サルガドを評して「消費的記号という幻ではなく、真の人間を撮る写真家」と評しています。イメージが立ち現れるまで、待ち、それそのものが語り出すのを静かに促すのだと…。

 

そういう、写真家としての態度も含めて、そして何よりもやはり批判されるほどに美しいモノクロームの写真に魅力を感じます。

 

志賀理江子

2人目は、志賀理江子ですね。1980年生まれ。

宮城県名取市塩釜地区北釜地区(コメントでご指摘いただきました。記憶違いでした。ありがとうございます。)に移り住み、コミュニティに深く入り込みながら、地元の人びととともに撮った「螺旋海岸」を見て、ただただ衝撃を受けたということに尽きます。

そのセットアップされた写真は、しかし、その繊細なセットアップに反逆するように、意味=コンテクストを拒絶するかのように見えます。

平たく言えば、「意味」が分からない。

ただ、大事なのは、意味を伝えることだけが、けして写真の目的ではないし、そうであってはいけないということだろうと思います。

この↓開墾の肖像と題された写真を前にして、その意味を解釈してみようとするのは、なんと愚かな行為だろうかとも思うのです。

その圧倒的なビジュアルをこそ、受け入れるしかないんだろうと。

ああ、新作シリーズがでないかなぁとずっと心待ちにしている写真家の一人です。

「CANARY」も「螺旋海岸」も欲しいのですが、ちょっと入手難度が高すぎて、手元に持てておりません。

 

museumcollection.tokyo

 

畠山直哉

3人目を挙げるとすれば、畠山直哉ということになるかと思います。

その写真は、非常に直截に撮られているように見えます。

震災後、自らの出身地でもある、故郷・陸前高田など東北を撮った写真は、震災で母を亡くしたという重い現実を湛えながら、静かな雰囲気に満ちています。

 

そして、その言葉が非常に魅力的な写真家でもあります。

写真家に、言葉が好きだと言うのは、ひょっとすると、失礼なのかもしれないと思いながら、ただ、彼の言葉が綴られた本で、その思考の跡を追っていくのは、とても、面白い読書体験になります。

 

三者三様

というわけで、3人好きな写真家を挙げてみたのですが、ビジュアル的な共通項は、あまりないかもしれませんね。

しかし、あえて言うなら、写真家としての写真との向き合い方に惹かれているのかもしれません。

いや、写真家といわれる人たちは、すべからくして、その写真との向き合い方の強度において、まさに写真家と呼ばれるに至っているのではないだろうかとは思いつつも。

色んな写真家と写真の向き合い方があって、私は、どんな向き合い方がしたいのだろうかと考えてしまいます。もちろん、写真家と呼ばれたいというおこがましい理由ではなく、ただただ、自分が写真を撮る上で、自分自身が納得するためですが。

 

book obscuLABで学んだことも元にして、自分な好きな写真家、写真表現というのをもっと探してみたいですね。

 

ということで。

ではまた。