シロナガス/星景写真と科学本のブログ

受信者としてのサイエンスブログ。「暮らしの中の星空」をテーマにした高知県内の星景写真、スタータイムラプスと、ポピュラーサイエンス/サイエンスノンフィクション(一般向け科学書)の書評。PENTAXで撮影しています。

星景サルベージその77 春風のポラリス

ふむ。とりあえず、最繁忙期は抜けたので、年末の締め切りに向けてペースを上げていかねばならない。

のだが、サルベージをしておかないといけない案件がたまっているので、サルベージをしておきましょう。そうね、また選外を量産したということですね。

 

あ、そうそう、PENTAXが、創設100周年デーを迎えたとのことで、大変めでたい。うむうむ。

カメラ業界はなかなか市場が縮小して大変そうなんですが、この構造的変化はしかし写真の圧倒的な量的増加を特徴ともしているわけで、ぜひ、この変化をカメラも追い風にしてもらいたい…。どうなんでしょうね?

写真が使われなくなっているのなら希望はないですが、むしろ写真が凄まじい量で溢れているこの現代…カメラにとって乗るべき風はあるようにも思うのですが…。

 

閑話休題

サルベージです。

 

春風のポラリス

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PENTAX KP レンズ HD DA☆11-18mm アストロズーム 焦点距離12mm

ISO100 SS1200秒 F2.8  20分長秒露光

2019.4.6 高知県香美市にて

 

春風に揺れる桜の花の上にポラリスが輝いています。桜の間には、北斗七星も。

 

20分長秒露光の作品。

カスタムイメージ「ほのか」をベースにして現像処理しています。

薄明の時間を逆算して、露光を始めるという割とテクニカルなことをやって、比較的うまくいった一枚。ISO100だったので、かなり現像で露出を持ち上げても耐えてくれたというのも含め。

 

これ、今年撮影した奴の中では、おそらく一番気に入っている一枚ですね。

選外だったわけですけどね。

いやまあ、それはもうこの際しょうがない。

気に入っていることを曲げる理由にはならない。

 

写真における「弱さ」についての再考

まあでも、この写真が、何か選に入るような「強さ」はないのもわかる。

「強い」から選に入るわけでもないのでしょうが、少なくとも「弱い」写真だろうと思いますし、だからこそ、非常に気に入っているわけなのです。

 

20分露光という手法自体が、まず、弱さを内包した撮影手法だという自覚があります。

というのは、比較明よりも、星の描写が薄くなるんですよね。そして、20分という時間も、長いと言えば長いのですが、比較明合成で1時間や2時間の軌跡をえがくことを考えると、やはり短い。その分星の軌跡は短くなる。

shironagassu.hatenablog.com

以前このエントリーでも書きましたが、まあ、機材の制約という面もあるのです。あるのですが、20分という時間の星の移動量が、ある意味、良い塩梅というか、私の琴線に触れる弱さなのです。特に北を向くと星の移動量は大変少なくなる。

が、それが良い。

ここがなかなか言語化できないところですけど。

 

という導入で、久々に写真論に入っていきます。

 

上で写真が溢れる現代という言い方をしましたが、それは、意味の氾濫でもあると思うのです。その意味の氾濫の中に、私は、写真をもって、またあえて意味を提示していく。それはどういうことなのか?

過剰の上に、さらに重ねていく。意味を持たせないという方向で、この意味の氾濫に応えるやり方も写真には開かれていると思っていますが、私は、あえて、やはり、意味の氾濫に対して、意味を語りたい。

 

「意味の氾濫」。

それは、実は写真に限らないのですが、意味が氾濫してしまうと、人間には意味が認識できなくなってしまう。意味が氾濫することによって、意味を失ってしまうという状況が生まれているというのが、現代の一つの特徴だろうと思います。

ビッグデータの時代でもあり、人新世の時代でもある現代。それを読み取るAIという手法が人間の目ともなりつつありますが、その巨大で緩慢な変化を認識するというのは、本来は、人間の感覚の外にあるように感じます。

人間の感覚では、そこに意味を見出せないデータ群があり、その中に写真も入り込んでいるのではないか。現代に溢れかえる過剰で、無数の写真群を前にして、一度、立ち止まって意味を見出す時間=「間」が必要なのだろうと思うのです。

だからこそ、意味を強く打ち出すことで「氾濫」させるという形ではなく、なるべく、控えめに、目を凝らせば見えるような形で、やり方で、意味を提示していくという「弱さ」の手法が、今、写真にとって大事だろうと思うのです。

 

そして、その時に、(フェミニズムを理論的背景に据えたような)身体性に根差すということも大事なのではないかと考えています。

写真家にとって、身体性に根差すとは、どういうことなのか。それは、おそらく、その時、その場所で、撮ったということなのではないかと思います。

そして、身体性を抱えるということは、実は、弱いということでもあるわけです。身体というものを人間の軸に据える時、人間は、傷つきやすく、助けられるべきものとしてある。どんなに強い人間でも、生まれたときには誰かの手によって助けられて、生を育んだわけで、この弱さは、根源的に宿命づけられてもいるわけです。

身体性に根差す表現手法として、非合成という手段を講じ、時空間のある一座標を――その時、その場所、というある一点を――指し示すことで、表現にも弱さを持たせたい。

 

というような写真の「弱さ」を表現したい。そのテーマに沿った一枚になったからこそ、上の写真は今年の一番のお気に入りになっているわけですね。

 

うん。

良い感じで、写真論を語っていますね。

これは、みんながついてきている自信がないぞ。

でも、反省せずに語っていこうか…。

どこかにいるかもしれない、YFH写真論の観測者に向けて…。

 

ではまた。

 

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