シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

【書評】「盛り」の誕生

日本の女の子の間に、発生した「盛り」という行為。

プリクラやアプリなどで目を大きく加工した写真、多くの人が見たことがあるだろう「盛り」。

本書では、「盛り」を

一九九〇年代半ば以降のデジタルテクノロジーの発展により出現した「バーチャル空間」において、日本の女の子の間に広がった、ビジュアルコミュニケーションの行動。

と定義し、当事者へのインタビューを重ねながら、その背景を考察していく。

著者は、「盛り」を始めとする日本の女の子の美意識に端を発する一連の技術を「シンデレラテクノロジー」と名付け、定量化し数式で表現しようと研究する研究者である。

 

 

「盛り」の文化史

「盛り」の原型となる、女の子の若者文化、いわゆるコギャルやガングロ、ルーズソックスなど、ここ20年来の現象を、当事者のインタビューを元に、その起源や歴史を振り返っていく。

実に丁寧。

私も著者と同年代の一人として、その日本の女の子の中に発生した様々なファッション現象は(もちろんそんなコミュニティには参加したことはないわけだけど)横目に見てきただけに、その背景の文化的考察は大変興味深い。

非常に重要なのは、外部から見れば、一様に均質化されるようなファッションをする目的は、当事者の認識として、あくまで「自分らしさ」を求めての結果であるということが、丁寧なインタビューによって、明示されている点だ。

そして、それらのファッションは、あるコミュニティにおけるビジュアルコミュニケーションなのだ、という。だからこそ、コミュニティ外部から見れば均質に見えるが、そのコミュニティに属している者から見れば、それが最先端の流行をしっかりと踏まえたものになっているのかは一目瞭然で、その些細な(しかし当事者にとっては大きな)違いこそ、「自分らしさ」の、そして個人的な工夫や努力を示すものになるのである。

目を大きく見せるという盛りが誕生するのも、その文脈の先であり、目が顔のパーツの中では相対的に他人と比べても均質で差異が小さく、メイクやデジタル技術によって、大きく変化させやすかったという技術的な面も寄与して、独自の「盛り」文化がつくられてきた。そういった歴史的文脈を丁寧に描き出していく。

そして、現在は、著者によれば、それがSNSを介して、世界的に影響を与えうる「MORI 3.0」の領域へと入ってきている歴史的段階にあるという。

非常に興味深い。

 

いわゆる「映え」について

私は、実は、著者については、いくつかの新聞記事や、以前読んだ本ですでに知っており、非常に面白い研究をする科学者がいるんだなと興味を持っていた。

その興味の元は、私が、現代のSNS界隈でみられるいわゆる「映え」とは、どういう現象なのだろうかということに深い関心があったからに他ならない。

「盛り」と「映え」…おそらくは、違いもありつつも、同じ文脈の中に位置づけられるものではないのだろうか、と考えてきたし、本書を読んで、それはやはり全く関連がないとは言えない、むしろ関連しているととらえていいのではないだろうかと感じている。

本書の「盛り」の議論を敷衍して、「映え」に適用してみたい。

 

となると、「盛り」とはコミュニティにおけるビジュアルコミュニケーションであったわけだから、「映え」もその性格を持っているということになる。

おそらくはそうなのだろう。

そう考えるといくつかこれまで疑問に思っていたことに説明がつく。

 

「映え」。

いわゆるインスタ映えが一番有名ではあるが、それが何であるかを定式化したものは、ないように思われる。似たような現象にいわゆる「絶景」、「エモい」などいくつかの類型があるように思うが、総じて、特徴的なのは、「同じような写真を同じような構図」で写し(加工し)投稿するという点である。

実は、私は、この部分が一番理解が出来なかった。

なぜ、同じような写真を撮り、同じような写真を出すのか……???

 

しかし、それが、コミュニティにおけるビジュアルコミュニケーションなのだとすれば、「同じ」であること(少なくとも人目にはそう見えること)が非常に重要なのだということに気づく。それがコミュニティへの参加を表明することになるからだ。

本書でも「盛り」の文脈において指摘をされているが、それは日本古来の守破離の思想にも似ている。家元がいて、まず、伝統的な表現形式を学び「守」、それができて初めて新たな挑戦「破」を行い、それが認められれば新たな流派「離」となるという。

 

つまり、「映え」とは作法なのだということに思い至る。

だからこそ、同じような構図で、同じような写真を撮らなければ「ならない」し、それは、おそらく撮り方についても一定の制約が与えられるのだろうと考えられる。

花壇や花畑を踏み荒らしたり野生動物を餌付けして撮影するような行為が(当然一般的な社会通念に照らしてもマナーの悪い行為だと思うが)、特に写真を撮る人たちからことさら強く非難されるのも、本来守るべき作法を守っていないという側面をも含むからだろう。こういう「マナー違反」は、コミュニティへの攻撃でもあるのだ。だからこそ写真を撮るというコミュニティの中から、より強く非難されるのではないか。

 

そして、「映え」の最新の流行を捉えて、創意工夫し、そして、新しい流行を生み出して「映え」を越えていくという、まさに守破離の様相がそこにはある。

このことは、ヴァルター・ベンヤミンが(未完の)パサージュ論において指摘した19世紀に端を発する「モード」への理解とも相通ずるようにも思う。

ベンヤミンは、モードをそれまでの前時代的な階級別の服装という枠をこえて、下層階級にまで広がった最新のファッションとして、ある意味で肯定的にとらえつつ、一方では、その時代の最先端のモードが「進歩」という装いをまといながら、全体としては変わらない、ある意味で「同じもの」として「新しさ」を反復するところに資本主義的な病理を見ていた(ように私の理解では思える)。彼はコミュニストだったので、この資本主義的な「新しさ」の反復(モード)を乗り越える革命的契機とは何かを思索していく…。

このモードといわゆる「映え」というのは、大きく重なる部分があるのではないか。「映え」も、常に変化をしつつ、それ以前の「映え」を更新し「新しさ」をまといながら、全体として「同じもの」を反復するように見えはしないだろうか?

と。

 

いや、話を戻そう。

コミュニティの外から「映え」を見ている私には「同じ」ようにしか見えてないのだが、当事者にとっては違いは明確であり、独自性がある表現を含んでいるんだろうとも推察される。新しさを含まなければおそらく「映え」(モード)は生き残れない。

同じ場所で、同じような構図で、同じテーマを撮る、その上でどう創意工夫し新たなものを吹き込むかという「映え」の作法。それを理解すれば、これまで同じに見えていたものの違いが見える…かもしれない。少なくとも、その写真を撮るために払われた努力に思いをはせることはできるだろう。

 

少し話は違うが、私は星景ばかり撮るので、星景を見た時には、なんとなくその写真の背後にある思想の違いも見てとることができる。でも多くの人にとっては、それはおそらく同質に見えるだろうなと思う。自分にひきつけて考えればそういうことだろう。

 

翻って自分を知る

そして、そこまで考えた時に、自分と「映え」作法との距離が相対化されて自分を知る契機が訪れる。

良い本の定義というのはいくつかあると思うが、その中のひとつに、やはり読むことで自分を知ることができる本というのは、得難い。

非常に良い本に巡り合えたと思う。

 

私と「映え」作法との距離。

その距離は、私がマイノリティ気質で、アウトサイダー(門外漢)であるということに起因をするように思う。

コミュニティに参画せず、作法を体得せず、良いように言えば自由に、悪く言えば好き勝手に、星景写真を写し(そして場合によってはアーティフィシャルに加工もし)、投稿する。

実のところ、「映え」を目指すこととやっていること自体は同質のもので、ベクトルが「映え」させないという方向に向いているだけでもある。ただ「映え」を目指してないのだから、当然「映え」ないし、コミュニティとも交わらない、という違いが生まれてくる。

特にSNSは、フィルターバブル(SNSが情報選択を自動化し、結果自分が見たい情報しか見えない状況になる)など、コミュニティがタコつぼ化する性質を多分に備えている。その中で、私の持っているマイノリティ気質が強化されていることは、想像に難くない。

しかし、ではマジョリティになりたいのか、と言われれば、やはりそれはなりたくはないので、もうこればかりはしょうがない。

 

そうであるなら、マイノリティの側から、ミニマムな視点で、この世界を見ていくということが私の大事なテーマになりうるのではないか。

私は本当にマイノリティなのか、何においてマイノリティ足りうるのかということについては、深く考えなければならない問題があるとは思うのだが、人間だれしもある側面を見ればマイノリティ性を有しているのではないだろうか。

そして、マイノリティは、色々な場面で、社会から「いない」ことにされる場面が往々にしてある。その「いない」を反転させて、可視化するだけでなく、マイノリティの視点をも示していくことは意味のあることだろうと思う。

 

だからこそ、自分の中のマイノリティ性を大事にしていこう、と。

そこから、生み出されるものがあり、そこに見出し得る意味もあるだろう、と。

(まあ、私は、人を撮らずに星ばかり撮るので、マイノリティの視点を表すとしても、かなり婉曲表現ではあるはず。ただそれでもマイノリティの視点は、写真という視点=撮影者の存在をいやがおうにも示すメディアで表現をするからには、根っこにはもっておきたい意識、ということで。)

 

あえて、ベンヤミンのモードの議論に戻るならば、新しさを反復するものとして最先端へと留まり続けるモードとしての「映え」をどこかで乗り越える時が来るだろうとも思う。それは、社会に「いない」とみなされているマイノリティが、社会に開いた空隙に立ち現れる時なのではないか…。反復ではない真の新しさが生まれるとすれば、それはマイノリティ性と表裏一体としてある多様性の発揮としてではないか。

そんなことを、現代に生き残ったコミュニストとして考えさせられるのである。

 

いやいや。考えは尽きないが、今日はここまでにしましょう。

大変、思索を深めさせてもらえるいい本に出合った。感謝。

ぜひ、著者のこれからの研究の発展も期待したい。

 

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