シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

早春のベガに出会う

うむ。

寒暖差が激しい。

昨日は、完全に春の陽気だったのですが、今日は、どうにも寒い。

今日は、西の空に細い月がきれいでしたが、どうもこれから雲が出るような予報。

うむ。しょうがない。

しかし、梅はもうチラホラ咲いています。撮りにいかねば…ならない…。

明日明後日あたりで晴れるだろうか、どうだろうか…。

待つしかない。

 

というわけで、先日とってきたものの中から、ベガを一枚。

【目次】

 

早春のベガに出会う

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PENTAX KP レンズ  HD DA 15mm Limited  焦点距離15mm

ISO4000 SS30秒 F4 アストロトレーサー使用 

2019.2.2 高知県室戸市にて

 

この時期は明け方になるともう夏の星座であること座のベガが、昇ってきます。

2時くらいには出てくるようですが、これは、だいたい4時前ごろの空。

北東を向いています。

ポツンとひときわ明るく光る青白い星には、凛とした存在感があります。

夏にみるベガとはまた趣が違う。この春先のベガはかなりお気に入りの星ですね。

 

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星座線をひいたものも。

こと座は、小さい星座ではありますが、平行四辺形の4つの星が並んでいて、端正ですね。

この4つの星を、どうやらマナイタに見立てた星名がいくつか伝わっているようです。ウリキリマナイタ(瓜切り俎・香川県丸亀市本島に伝わる)という名も。

瓜というからには、やはり夏の星座ということでしょうね。俳句で、瓜は夏の季語になるそうですから。

 

先日の室戸岬は朝まで撮ったのでいろいろとあります。また機会をみて出していこうと思います。

 

デモクラティック写真論序説

と、こっからは余談です。アクが強いので、癖になる味(婉曲表現)が好きな方にお勧めです。

 

このところ、「写真の民主主義とは何か」を少し深く考えています。もともとは、本来の文脈の政治における民主主義について、深く考えなければならない事情もありいろいろ考えていたのが、写真論にも派生しました。ちょっとフィードバックをして、序説として今の問題意識をまとめておこうと思います。

 

いや、佐々木基一にしても、スーザン・ソンタグにしても、写真のデモクラシー(民主主義)という文脈に言及をするときに、主に撮る側の民主主義、つまり、誰でも特殊な訓練なしで撮れること=訓練を重ねたプロと未訓練の素人の写真に本質的差異がない、という点に、写真の民主主義的な性格を見ているように思います。

 

しかし、写真がデジタル化し、特に柔軟な編集が誰にも可能になる中で、逆に撮ったあとの写真に、デジタル的な装飾を施すことがかなり増えてきているのではないでしょうか(ポストプロセッシング)。となると、そこには、やはりなんらかの技術の習得(フォトショップなどの技能)が必要になる。

そして、本当にあまねく多くの人に写真(映像)を生み出す機会が浸透した結果、逆に、誰もが撮れるものに価値が見いだされなくなってしまった(しかし、私はだからこそある人が自らの日常を撮るということに意味があると思うのですが、それはまた別の話)、何かその写真に特別なものがなければ、価値が見いだされない傾向も強くなっているように思います。

こういう状況を勘案すると、撮ることをもとにした民主主義の意味は薄まりつつあるのではないか。言い換えるならば、誰もが撮影者として同権である状態、つまり撮る者としてプロもアマチュアも高度な技術習得者も素人も等価であるという状況は、薄れつつあるのではないか。

そこにデモクラシーの根拠を見るのは難しくなっているのではないか、と。

 

であるならば、どこに写真のデモクラシーを見るべきか。

今、ソーシャルメディアにおいて、写真を見ない日はありません。本当に無数の写真が撮られ、展示されて、消えていく。

ソーシャルメディアというのは、個人を単位とした双方向的な結びつきです。そこでは、写真を撮る者でありながら、同時に写真を見る者(鑑賞者)としての側面も立ち現れざるを得ません。

この鑑賞者としての側面から、写真の民主主義を考えてみるべきなのではないか。というのが今日の問題提起です。

 

写真がコミュニケーションの手段である以上、つまり、何かを伝えるために撮られ、何かを伝えていくものとして写真を捉えるならば、そこには必ず撮影者と同時に鑑賞者がいるということになります。その写真を他の誰にも見せないという場合も、自分が鑑賞者の立場となってその写真に向き合うということになる。そういう意味で写真には、撮影者ー鑑賞者の関係が必ず発生するのではないか。

そして、そうであるならば、「この写真は美しい」といったときに、この鑑賞者が、鑑賞することによって、美しさを生み出した、といえるのではないか。撮影者が、撮ったことによって美しさ(芸術的価値)をつくったのではなく、鑑賞者が見たというその行為によって美しさが生まれた、と、ラディカルに主張しても良いのではないか。

 

そして、何を美しい(あるいはマイナス座標の芸術的価値として醜い)と感じるかは、鑑賞者によって多種多様ですが、そう考えると、まさに写真(映像)を見るという行為においては、鑑賞者は互いに同権であるといってよいでしょう。

そこに、撮影者側の視点からは見えなかった、もう一段深いデモクラティックな写真の本質が見える、のではないか。

 

鑑賞者は、写真を見ることによって、美しさをつくりだす。そのことを敷衍すれば、撮影者ー鑑賞者のコミュニケーション関係において、撮影者が何をどう撮影するかということを、撮影者の独立した主観ではなく、鑑賞者との相互作用としてとらえることも可能であるようにも思えます。鑑賞が撮影に、メタ的な影響を及ぼし、むしろ規定していく。

 

つまり、観賞こそが、写真の民主主義の力の本質であり、撮影はそこに付随する上部構造ではないのか。

本来の民主主義の文脈に引き戻して政治として例えるならば、鑑賞者こそが市民であり、撮影者は政治家(議員)のような存在であるといえなくはないだろうか。この時、市民も政治家になれるという意味で、鑑賞者は撮影者にもなれるといえてしまう。

そして、その時にどちらがより本質的な力(権力としてのパワー)の根源かといえば、政治家ではなく市民であるのは自明です。ということは、写真にもう一度話を戻せば、写真の価値を作り出したのは、撮影者ではなく鑑賞者ということになる。

そのようなものとして、鑑賞者ー撮影者の関係を捉えなおすことで、写真のデモクラティックな側面をこれまでとは反対側から見通すことができるのではないか。となればあまりにラディカルですが、鑑賞することこそが写真を生み出す、とまで言ってしまっても良いのではないか。

 

これが、今、私が考えている写真のデモクラシーです。

まだ、荒いデッサンで、細部は、もっと詰めなくてはなりません。が、言いたいことが伝われば幸いです。

鑑賞者から写真の意味を考察するという試みは、ベンヤミンが提示した、複製され展示されることによって生み出される写真芸術の価値=展示的価値という文脈にも通じるのではないかと思えます。この展示的価値の文脈が、このソーシャルメディアの時代に、非常にアクチュアルな意味をもって立ち現れてきている。(と、言い切っていいのかはわからないのですが)。

少しこれから、集中してベンヤミンも深めてみたいと思います。

 

と。今日は、がっつりと写真論を語っておきました。

いやあ。やばいぞ。

 

早く私に11-18mmを渡さないとこの調子でわけのわからないことを、発信し続けることになる。あと2週間ほど。耐えねば。

今日あたりから、公式で買ったレンズは一部先行出荷されてモニターされるらしい。うーむ。良いなあ。何か追加情報が出てくるだろうか。楽しみです。

 

では、また。

写真論の無茶振りにもまたお付き合いください。いやだといってもまた語ります(良い笑顔)。

 

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