うーむ。
災害列島・日本。本当に災害が続きますね。今度は、北海道で強い地震。道内全域で停電という未曽有の事態です。お亡くなりになった方々に心からの哀悼の意を表します。
本当に、この多発するありとあらゆる種類の災害へ、どう対応していくのか、日本列島に生きるなら避けて通れない問題ですね。
それでも、今回、泊原発が止まっていたことは不幸中の幸いでした。外部電源喪失という事態になりながらも、非常用電源で、核燃料プールを冷やしつづけることはできたみたいですね。これが稼働していた場合、不測の事態が起こる可能性が増大する訳ですから、余りにリスキーすぎる。最悪メルトダウンすれば周囲にはもう人は住めない…。このリスキーな手段に頼らずとも、別の手段で発電したら良いだろうと…。
ただ、今回原発が稼働してたら良かったという意見も中にはあって、なんというか、日本の言説空間におけるこのあまりの隔たり、何か違うものを見ているんだろうかとも思うんですが、同じもの見てるんですよね。うーん、よく考えてみないといけない。
こういう隔たりって、SNSだとブーストされるんですよね。で、隔たりがまた広がる=インフレーションしちゃうというか。
何かが起こるたびに、この言説空間の隔たりというか分裂にめまいがします…。まあそれでも、考え続けてみないといけません…。この言説空間のインフレーションについて。
まあ、それはともかく。全域停電と聞いて、私は不謹慎ながらも、「いや、そうなると星空がきれいだろうな」と思ってしまいました。星撮りの抗いがたき習性。
3.11の時にも、暗い夜空で満天の星を見上げて、それが印象に残っているという話がいくつか伝わっていますが、今回ツイッターを見ていたら何人かの方が、街明かりのない星空の美しさを伝えてくれていまして、大変な中ながらみんなやはり夜空を見上げるんだなと妙に納得してしまいました。夜空を見上げるという行為は、おそらく人間の本源的な欲求に根差しているんだと思います。暗闇の中に光を求める行為だからでしょうかね。
ただ大停電は、本当に大変だと思います、出来うる限りの早期の復旧がなされることを切に願います。
私ももし南海トラフ大地震が起きて、無事生き残っていたら、復旧支援もしないといけないしなかなかそれどころではないとは思うんですが、何とか合間を縫ってワンショットだけでも、街明かりの落ちた高知の街並みと星空を撮っておこうと思います。それは、きっと、地震の被害を後世に伝える大切な証言写真になるでしょうから。
と、長い前置きを書きつつ、サルベージです。
「おかえり、人類。」
PENTAX KP レンズ HD DA 15mm Limited 焦点距離15mm
ISO3200 SS30秒 F4
火星の表面に見えるような仕方で赤く色かぶりをさせて、赤茶けた大地っぽく現像してみました。
空に輝くのは、この夏、15年ぶりの大接近をしていた火星。少しずつ遠ざかりつつありますね。そこから足跡がこちら側に向かうように、これは、意図的につけています。
その足跡にかなりのローアングルで寄って撮影。
何百年後か、何千年後かに、地球を抜け出していた人類が、別の惑星から、地球へ帰って来たような。あるいは、地球から別の星へ行ったような。そんなSF的なストーリーを思い描きながら仕上げてみました。
生命の起源に関する「パンスペルミア仮説」というのがあって、宇宙には、生命が広範に存在しており、その生命の萌芽が、地球など生存に適した地表に到達することで生命が生まれたのではないかというものなんですが。パンとは、普遍的なという意味での「汎」、スペルミアというのは「胚種」、のことです。
一見、トンデモ理論ぽい感じがしますが、結構真面目に検討されている仮説でもあり、国際宇宙ステーションのきぼう実験棟で、宇宙空間に設置したエアロゲルで宇宙塵を捕集して、この仮説の検証をしたりしています(たんぽぽ計画)。生命は宇宙空間に耐えて星間移動ができるのかというのも、あわせて検証しているようです。
私は、地球で一回限りの生命誕生が起こったというよりは、確かに、宇宙では生命が普遍的に存在していて、それが連鎖しているという考え方の方が理にかなっているようには思います。宇宙原理に照らしてみれば、この宇宙は、どこを見ても本来は等価でしょうから。
写真に話を戻すと、宇宙にあまねく存在する(かもしれない)生命に、「おかえり」といってもらうようなそんな感覚で、一枚撮ったということですね。
あと、これは自作ハーフソフトフィルターでの作品なんですが、この自作フィルター、微光星をかなり食ってしまうことが判明。もっと薄いのをつくらないといけないかと、吹き付けを加減して、もう一枚つくってみました…早くテストをしたい…が、しばらく晴れそうにないですね…。うーん。
そして際立つプロソフトンの優秀さよ…。自作でこの域に到達するのは至難。
プロソフトンのハーフは使ったことがないが、ねじ込み式のものと同じコーティングでしょうから、信頼できますね。もはやステルスもしない完全なるマーケティングですけど、普通にこれを買うべきだと思います(笑)買って経済を回してほしい。
とサルベージでした。
追伸・ヴァルター・ベンヤミンについて
追伸として。
ちょっとこの間、何を思ったか、写真史を学んでいます。
写真を撮るのに写真史は直接的には必要ないかもしれませんが、自分のやっていることが、人間の生み出した文化の中でどういう文脈に位置づけられる行為なのかというのに興味があるし、それを理解することは、ある程度自分の写真表現を変えるかもしれないなと思い…。
色々と読んでいってますが、ヴァルター・ベンヤミンというドイツの思想家が書いた「複製技術の時代の芸術作品」というのを読み終えたのでまとめ。写真や映画といった複製技術を用いた芸術作品の新しい芸術性というのが、どこにあるのか、という内容です。
鬼の連ツイで内容を要約しましたので、貼っておきます。
なので、このエントリー、書評カテゴリーにもいれておこう(笑)
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」まとめ
— YamamotoFHironaga (@fourier2010) 2018年9月6日
1936年に書かれた小論。当時既に発展して来ていた写真や映画がどういう点で新しい芸術と言えるのか、ベンヤミンは当時の社会情勢にも照らしながら、「アウラ」という概念も使い、その意味を定義して行く。
↑このツイートからツリー上になっていますので、興味があればぜひ。
こんな本です。
複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス) [ ヴァルター・ベンヤミン ]
- ジャンル: 本・雑誌・コミック > ホビー・スポーツ・美術 > 美術 > その他
- ショップ: 楽天ブックス
- 価格: 2,052円
ということで。ではまた。