人類の歴史に寄り添い、パートナーとしてともに歩んできた「犬」たち。
本書は、犬の起源や、犬たちの認知能力の研究、また、現在における動物愛護運動まで、犬にまつわる話題を幅広く取り上げる。
◆犬とはいったい何だろう?様々な側面から
現在の遺伝子研究によれば、同種とは思えないほど多様な形態に分化している犬種が、ハイイロオオカミにのみ起源をもつことがわかっている。その遺伝的な差は、(見た目の違いに反して)わずか0.2%でこれは、人類の人種間の差よりも小さいのだそうだ。
また、人間と犬の関係を語る上で、人間による犬の擬人化は大きなファクターになるようだ。
例えば、1万2千年前のイスラエル北部の遺跡では、犬と人間が一緒に埋葬されているのが見つかっている。これも、犬が擬人化され、人間の文化の中で居場所を得ていたことの証拠になるだろう。
犬と類人猿の差からも面白いことがわかる。
犬が飼い主の指さしを判断してボールを追うといった光景は珍しいものではないが、これは、チンパンジーなどでは指さしを理解することが難しいのだそうだ。
しかし、これは、知的能力として犬が類人猿に勝っていることを意味しない。むしろ類人猿の方が、相手の感情を推し量るなど高度な能力を発揮する。ただ、チンパンジーなどに顕著なのは、利己的で協力的でない性格的傾向で、これは、ボスが絶対権力を持ち、例えば協力してえさを得ても、力づくですぐに奪われてしまうなどの状況に起因している。
これによって他者との指さしなどを介した協力関係を結ぶ心理的動機が欠けているのだという。
犬が長けているのは、この協力関係を築き信頼感を持つという部分であり、これは人間の赤ん坊なども長けている部分で、人間と犬のこの共通性が、犬が人間のパートナーとしてオオカミと分化するきっかけとなったともいえるのではないだろうか。
本書の多様な切り口は、普段何気なくとらえている犬と人間の関係を深く考えるきっかけをくれるかもしれない。
私自身、どちらかというと犬好きなのだが、その魅力というのはやはり、彼らの人懐っこい性格にあるわけで、犬自身の起源がその人懐っこさにあるというのは、逆説的に聞こえるけども非常に納得しやすい。
◆犬の権利/動物愛護運動の議論
後半部では、特に、犬を中心とした現代動物愛護運動の展開を詳しく紹介してくれる。
野良となった犬が捕獲され安楽死させられる問題、血統書付純血種の繁殖の問題(近親交配の遺伝病的問題、繁殖環境の劣悪さの問題など)、アメリカにおける犬の里親探し制度の現状など、こちらの議論も多彩である。
特に、犬の権利をどう考えるか、安楽死をどう考えるかについては、犬を「名誉人類」と考えるのか否かの思想的側面での論点や、動物愛護のコスト面なども含めて、単純ではない状況を取材に基づいて丁寧にすくい取っていて非常に興味深い。
著者の愛犬として、本書のあちこちに登場してくるラブラドールのミックス犬ステラの描写も、多少情緒的ではあるが、本書の議論が空中戦ではなく、現実に即したものであることを思い起こさせるうえで、有益に働いているのではないか。
本書の最後では、犬の医療や埋葬をテーマに1章が割り当てられている。犬が現代の文化においてどう扱われているか、ペットのお墓や医療の問題については、たしかに一つの指標となる現象のように思う。
犬をどこまで「人扱い」するのか。
それは、裏返せば人間社会の性質の変化を反映しているといえる。
本書でも紹介されているが、ヴィクトリア朝(1800年代)のイギリス貴族の間で犬が大変な人気だったようだ。様々な犬種がつくられ純血種がありがたがられてきた部分と、貴族的な純血主義は無関係とは言えまい。
翻って現代社会において、犬が「人扱い」される傾向も、都市社会がもっている人間関係の希薄さと無関係ではないのだろう。
人間関係の希薄さの中にあいた穴を犬が埋めてくれているというのは、ある程度当たっているように思う。