うむ。
色々と、選外で帰ってきてしまっていまして、昨日、謎に濃いのを更新したばかりですが、サルベージの後がつかえているので、頑張って更新しておきます。
1年間目標にしてきた県展も残念な結果となって、二日連続で、選外通知を受け取ったら人間多少はへこむということがわかりました。
というわけで、まず、県展じゃないやつからサルベージ。です。
銀砂を撒く
PENTAX KP レンズ HD DA☆11-18mm アストロズーム 焦点距離12mm
ISO6400 SS30秒 F2.8 アストロトレーサー使用
枝垂桜の上に、天の川の中心部の反対側・腕の部分がかかります。
夜が細やかな銀の砂を撒き、花を咲かせるようです。
ウェブに出すにあたって、Nik collectionのsharpenerをかけています。等倍で見るとノイジーになるのですが、全体のシャープ感が増すという。
電子デバイスで最終アウトプットとする場合が多い現代の写真は、それに応じた最終処理が必要ということも言えるかもしれません。
しかも、デバイスの特性ごとに写真の質が少しずつ変わる。なかなか、難しい。
たぶんPCで見る人もモニターによって、またスマホの機種によっても全然違うでしょうね。
しかし、それは、写真というものの価値が、鑑賞者の手元でも作られるという意味で、写真は撮影者だけがつくるのではなく、鑑賞者との相互作用でつくられ意味を持つのだということを傍証する現象として、歓迎すべきことかもしれません。
いや、選外になったのはプリントなんですけどね。
選外でしたが、写真としては、結構気に入ってはいます。
高い壁
いや、しかし。壁が高い。
とても大きな壁に突き当たっていますね。県展の落選も含めて、非常に深い谷に落ち込んでいるイメージが払しょくできません。スランプ。
少なくともひどく停滞している。
レンズは11-18mmになって描写性能としては、言い訳がきかないと思います。機材を理由にはできない。
どうすれば、先へ進むことができるかどうか。
暗中模索ですが、あまり、深刻にはならず、撮り続けるというのは、大事にしたいと思います。
その上で、どう撮るべきか。
今までを全否定するのではなく、歩いてきた道を確認しながら、しかし、アプローチを変えていくことを考えてみないといけないと思っています。
結論からのべると、思いつかないものを、思いつくまで、撮る、ということに尽きるだろうと考えるに至っています。思いつかないものを思いつくというのは矛盾なのですが、その矛盾に向き合うところにしか、先への道はみえないだろうと。
言い換えれば、今は、被写体への執念というか、こだわりが足りないともいえます。撮った一枚とは、また別の可能性を常に探る姿勢をとらないといけません。
写真機を写真を生み出すプログラムなのだとすれば、そのプログラムの可能性は、世界中の写真家の撮影をもってしても汲みつくせない。事実上、無限に近いアプローチの仕方がある。無限をすべて試すことはできないわけですが、すべて試す必要はないですよね。意味のある方向へ決定的な一歩を踏み出す写真を撮る。
アプローチは無数にあるのですが、同時に、そのアプローチの内で、先へ進む一手となるものが存在している。すべてのアプローチに同じ価値があるかのように考える素朴な相対主義を超克した価値観が必要です。無数のアプロ―チの中に価値のあるものがある。(ここら辺は、マルクス・ガブリエルらの哲学潮流である新しい実在論の立場から影響を受けているように思えます)
価値のある一枚というのは、もちろん、すぐに、おいそれとは思いつかないわけですが、それを思いつくように、その矛盾を自覚しながら、被写体にもう一歩こだわる姿勢を持たないといけないかもしれません。
常に矛盾の傍らに立ち続ける。
実際の撮影では、私は、構図を変えたりもするんですが、設定を変えたり、例えば三脚の高さを変えたりとか、本当はもっと多様な選択肢があるのに、試してないんですよね。なので、帰ってきて写真を見ると、ああ…もっとこうすれば良かったなというのが確かに心によぎるんですよね。
それをなるべくなくすように、現場でもう一手試してみる。チェスや将棋の名人が、勝負を決める妙手のような一枚が、写真にもあるだろうということです。そこにプログラムの自動化によって抑圧される自由を取り戻しうる、写真家としての可能性がある、と。フルッサー流に言えば。
もう一歩矛盾の中に踏みとどまって、被写体に近づき、こだわって撮ること。それを、また来年の県展に向けたこの一年のテーマとしたいと思います。
まあ、県展の落選のはこれじゃないんですけどね。
また、それは次のサルベージでも。
ああ、晴れれば新作を撮りたいなぁ…。
ではまた。
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